蒙古 襲来 と は。 竹崎季長と蒙古襲来絵詞への想い

鎌倉時代についてわかりやすく【8】元寇(蒙古襲来)、人でつくった盾

蒙古 襲来 と は

画像はクビライ — Wikipediaより 彼は1271年に国号(国の名前)を「 大元」と改めますが、元々中国では国号を1字で表していたため、それに従い「 元 げん 」と呼びました。 南宋 平安時代、平氏が日宋貿易で大量の宋銭を取引していた、あの宋です。 1127年、宋の北部(北宋)を「女真族 じょしんぞく 」の王朝「金 きん 」が征服。 南で再建した王朝が「 南宋 なんそう 」です。 1234年、金がモンゴル帝国に滅ぼされると、南宋がモンゴル帝国の脅威にさらされる事態に。 蒙古襲来(元寇) そして起こった、蒙古襲来。 元との緊張関係 1268年、フビライは服属した(服従して下についた)朝鮮半島の「 高麗 こうらい 」を通じて、日本に 国書を送ります。 が、幕府はこれを 無視。 その後、送られてきた国書も無視。 「日本と国交を開きたい」といった内容でしたが、当時日本が貿易をしていた南宋から「元はヤバイ」という情報を得ていたため、かなり警戒したそう。 手元の資料では「元は、日本を征服する計画だった」とありますが、他に「南宋を攻略するため、(地理的に重要な)日本を味方に付けておきたかった。 しかし、日本が何度も無視したので、軍を送った」という説もあります。 画像は北条時宗 — Wikipediaより 文永の役 1274年 画像は元寇 — Wikipediaより 長い交渉の末、ついに元が動きます。 南宋を攻略した元は、 1274年10月、蒙古・漢軍15,000~25,000、高麗軍5,300~8,000、その他水夫などを含めた計 27,000~40,000人を乗せた軍船 726~900隻で、朝鮮半島南端の「合浦 がっぽ 」を出航(wikiより)。 やがて 対馬に上陸。 島民を大量に殺害し、または捕虜としました。 『日蓮書状』によると、元軍は捕虜にした女性の手の平に穴を空け、紐を通して数珠繋ぎにしました。 その数珠繋ぎの捕虜を舟の周りに並べ、敵(日本)の攻撃から守る盾にしたとか。 ついに元軍が、 博多湾に上陸。 幕府は九州の御家人たちを動員して、迎え撃ちます。 画像は元寇 — Wikipediaより 「赤坂の戦い」やら「鳥飼潟の戦い」やらいくつかの戦いが「絵詞 えことば 」に描かれているようですが、結局のところ 博多は1日で占領されます。 しかし、何故か夜になると、元軍は舟へ引き返していきました。 また幸運にも、その夜、暴風雨が起きて元軍に多大な被害を与えます。 結局彼らは、国へ帰りました。 「 神風万歳!」というのが、 かつて教科書に描かれていたストーリー。 これが「 文永の役 ぶんえいのえき 」です。 文永の役後 1275年、フビライは再び日本に使節団を送ります。 しかし、その使者5人を北条時宗は斬首。 元のリベンジに備え、博多の警備をさせていた「 異国警固番役 いこくけいごばんやく 」を強化。 国の一大事ということで、御家人のみならず、それまで幕府と主従関係を結んでいなかった 非御家人も異国防御に動員。 蒙古襲来をきっかけに、幕府の統治力は拡大していきます。 弘安の役 1281年 画像は元寇防塁(生の松原地区) 文化財情報検索 福岡市の文化財より 博多湾からの上陸を断念した東路軍。 一旦引いて、占領した志賀島で停泊していたところに、チーム日本は夜襲をかけました。 前回「文永の役」で相手の戦い方を勉強していたおかげか、日本側の勝利が続きます。 元側の主力「江南軍」は未だ到着せず。 ちなみに、数の多さが目立つ元軍ですが、兵の中には 降伏した高麗人や 南宋の人々が多く含まれていたので、士気は高くなかったそう。 一度後退して、江南軍の到着を待つことにした東路軍。 合流の期限日を過ぎても江南軍は現れず、さらに 疫病が蔓延。 もう無理だと諦めかけましたが、粘りに粘って、ようやく江南軍が合流します。 しかし、悪夢は再び。 7月30日 現在の8月15日 夜、 台風が北九州を襲いました。 元の船の大半が沈み、 無事帰った者は3万人に満たなかったとか。 神風万歳。 ちなみに、今回の神風は、時期的にも本当にあった話(史実)だと考えられているようです。 以上が「 弘安の役 こうあんのえき 」。 蒙古襲来で得たもの なんとか元の侵略を阻止したチーム日本でしたが、大きな問題が残りました。 「恩賞」です。 これまでの戦では、 敗北した者の土地をそのまま恩賞として分け与えれば良かったのですが、今回は異国が船で攻めてきた戦。 戦いには勝利しましたが、 得た土地がありません。 十分な恩賞を与えることができず、 御家人に不満が積もります。 更に「 三度目の蒙古襲来」に備えて、警備を続けなければいけません(当時の人は、3度目もあると考えていた)。 しかし、御家人の財布は空っぽ。 そんなこんなで、元寇以降の幕府の勢いは、下り坂に。 鎌倉時代の続き>.

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莫煩悩。北条時宗と蒙古襲来

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「蒙古襲来絵詞」をはじめとする史料を徹底的に読み直すことによって、従来の解釈の誤りを正し、… 蒙古襲来 [著]服部英雄 私の師、中世史家・石井進がもっとも愛した弟子がこの本の著者・服部英雄である。 地域に密着しての綿密な取材には定評があり、著書は数々の賞に輝く。 その彼が日本が体験した数少ない外国との戦いの一つ、元寇(げんこう)の解析に挑む。 元寇研究には、石清水(いわしみず)八幡宮の周辺で作成された『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』を用いるのが従来のやり方であった。 だが著者はこの史料を欺瞞(ぎまん)に満ちたものとして斥(しりぞ)け、貴族・藤原兼仲(かねなか)の日記『勘仲記(かんちゅうき)』、従軍した武士たちが記した文書(軍忠状〈ぐんちゅうじょう〉と称する)、また竹崎季長(たけざきすえなが)が描かせた絵巻物『蒙古襲来絵詞(えことば)』を分析の基軸に据えた。 蒙古軍は文永11(1274)年10月20日に初めて来襲するが、その翌日には退却した、と言われてきた。 だが本書によると、7日ほどの戦いがあり、そこに嵐があって退却していった、という。 また蒙古の船団は900艘(そう)と記されるが、著者独自の計算によれば、実際には112艘という数字が妥当である。 元寇は二回あり、文永の役の後に弘安の役が起きるが、この時も暴風雨があった。 本の帯には「『神風』が吹いた。 果たして、それは真実か」とあるが、本書は暴風雨の存在自体を否定するものではないらしい。 弘安の役に際してのそれは、日本軍にも被害をもたらした自然災害であった。 ともかく迫力に満ちた本であり、賞賛を集めるのだろう。 だが学問的「突っ込みどころ」は多い。 何より冒頭で、フビライの出兵意図を、十分な根拠も示さず「日本の硫黄が欲しかったため」と決めつけたのには驚いた。 元は伝統的な華夷(かい)秩序の樹立を望んだ。 だから幕府が対応を誤らなければ元寇はなかった、というのが主流学説ではなかったか。 だが硫黄の入手を切望していたなら、攻撃は不可避だったことになる。 大事なのは神風の有無か、元寇の目的を東アジア情勢の中で考えることか。 本書は考察の力点を誤っていまいか。 九州大学教授(日本中世史)。 『河原ノ者・非人・秀吉』など。

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【蒙古襲来】世界最強『モンゴル帝国』が攻めてきた!

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【井上あさひ】蒙古襲来の真実 SHARE 「蒙古襲来」を改めて知る 今夜のヒストリアは「蒙古襲来の真実」をお届けいたしました。 私も「元寇(げんこう)」と教わった世代ですが、蒙古襲来とはモンゴル帝国の日本への大規模な侵攻をめぐる戦い。 この蒙古襲来を「あらためて」知ることは私にとって「発見」でした。 攻め込まれる恐怖 日本とモンゴルは当時、外交もほとんどないまま戦争に突き進んでしまったそうですが、お互いその代償は小さくなかったようです。 当時のモンゴル軍はまさに「世界最強」。 しかもその軍隊が10万を越えようかという大軍で大艦隊とともに、日本へ押し寄せてきました。 しかも、集団で戦うことに習熟し、日本の武士が見たこともない強力な兵器を使う…日本には極めてきびしい状況だったことは間違いありません。 番組でも、現代の地元 九州の方たちが、蒙古襲来の様子、恐怖を鮮明に語り伝え、私たちにも教えてくださいました。 ならば当時、この大事件に実際遭遇した人々の衝撃はいかばかりだったでしょうか。 「神風」に助けられた?それとも… こうした日本側のピンチを救ったのが「神風」とされてきました。 台風が大きな影響を与えたことは間違いありませんが、逆転の嵐というよりは「追い風」。 鎌倉武士の皆さんのがんばりも知らずに「神風が吹いて助かった!」と思っていたこと、反省しています。 大変失礼致しました…。 謙虚ですね、鎌倉武士 ヨーロッパから中東、中国大陸にいたるまで当時の世界の大半を支配下においた大モンゴル帝国。 その侵略を2度も阻止したのですから、私が武士ならもっと自慢してしまいそうです。 もっとも、事件があった鎌倉時代の人々には「神様が味方してくれたからこそ勝てた」と考えてしまうほどきびしく、奇跡的な勝利でもあったのでしょう。 こんにちは。 今回も拝見しました。 鎌倉武士は日本の誇り、そう思うのです。 日本人やるなぁそんな気分です。 ただ、糞尿爆弾には思わず笑ってしまいました・・・(笑) 井上さんと同じく、神風のおかげで蒙古襲来は終わったように記憶していました。 鎌倉武士の皆さん、どうもすいませんでした。 竹崎季長の自慢?は絵図だけでしたね。 仲間を追悼する意味もあったとか。 仲間の活躍を讃えたかったのだと感じますよね。 お人柄が素敵ですよね。 前回の歴史秘話ヒストリアを見れてません。 録画はしてあるのですが。 見たら少しだけ、ですが、感想書かせてください。。 こんばんは。 そうですね、私も『元寇』で覚えましたね。 その資料として『絵詞』がある……という程度の講義でした。 それ故に、今回はなかなか印象深く、拝見した次第です。 どこから見ても、想像を絶する脅威だったのは、ムクリコクリという言葉で、その脅威を語り継ぐ我々もそうでしたでしょうけど、かの国も同じだったかも知れません。 元軍を疲れさせるほどにまで、粘り強く戦い抜いた鎌倉武士は、以降戦国時代の、兵数少なくして、大軍と対峙しながらも器用に勝ち仰せる、合戦武将のモデルケースだったのかも知れないと、しみじみ感じました。 竹崎季長という人も、まさにそういう戦い方をされたようですね。 それにしても、最後の『秘密兵器』は……。 それが『ウンのツキをもたらした』……なんて、冗談に聞こえるかもですけど、私はあの、鼻をつまむ人の絵を見たときに、『もしかして、硫黄を使った?』と思ったり。 新説にも真説にも、ならないでしょうか……。 あさひさん、こんにちは。 今回も、これまでに無い視点からの蒙古襲来のアプローチでしたね。 単純に台風(神風)で終わらせることなく、マンパワーが大国からの危機をすくった。 でも、今回のテーマ、女性のあさひさんにとってはすこし目を覆いたくなるようなないようだったのでは・・・ 元寇襲来で大切だったのは、日本全国の民が国難と思い一致団結した事ですね。 日露戦争でも、バルチック艦隊が宮古島近郊に到着した時、島民は電信施設のある石垣島まで船で知らせにいったそうです。 明治初期の皆さんは蒙古襲来の国難を手本としていたのではと感じています。 国際協調は大切ですが、現代の不安定な情勢を真摯に受け止め、自分たちがどう対応すべきか考えながら生活する事も大切ですね。 新規(といえるかどうか)兵器は、楠木正成が山岳戦で同様の手法を用いていた事は知っていましたが、楠木正成の得意としたゲリラ戦法は元寇の戦を大いに参考にしていた事に納得です。 あさひさんの最後のコメントいいですね。 やみくもに威張っている&刀を振り回しているという悪いイメージから、国難の時こそ進んで命を捨てるジェントルマン。 志を立てたあさひさんのコメントには重みがあります。 竹崎季長は、私が日本の歴史上で最も尊敬する人物の一人です。 竹崎だけでなくモンゴル帝国と戦った九州の武士達も同じです。 源平合戦や応仁の乱、関ヶ原の戦いなどの戦乱はどちらが勝っても日本人が統治したでしょうが、異民族との戦いに負けて征服されてしまうと、それまでの日本の伝統文化や、宗教までも無理矢理変えさせられていたかも知れません。 実際モンゴル帝国に征服された国は酷いめに遭っています。 文永の役の時には、博多の多くの女性や子供が連れ去られたとも聞いています。 そのことを考えればこの戦いで戦った武士は、日本を救った英雄だと思います。 北条時宗も若くして執権に就き、弘安の役の数年後の34歳で亡くなっており、一生をモンゴル帝国との戦いに尽くし、安心した日々は無かったことでしょう。 それと、話しは違いますが、このところニュース7で台風情報をかなり多くやってもらいありがとうございました。 私の身内が、矢野東と熊野に住んでいるので大変に助かりました。 大陸では、蒙古が、通ったあとは、ぺんぺん草もないと言われた、最強軍団、その軍団に、真っ向挑み、撃退した鎌倉武士、強し。。。 海を渡り遠征してきた軍団は、橋頭堡の確保、大軍を、飢えさせない食糧の備蓄、水の確保には苦労したでしょうし、地の利がないうえ、怪我や疾病もあり、少数の兵力の鎌倉武士の大奮戦で、撤退したと思うです。。。 神風は、たまたまの副産物ですね。。 また、舟をつくったのは、占領した、高麗、南宋の人達だったから、手抜きしたと、言われてますね。。 蒙古最盛期ということは、占領した地域が、あまりのも広大で、政治経済軍事の限界背線を、越えてしまったのもあるでしょう。。 エジプト遠征では、エジプト軍に、大敗北したのは、限界線を、越えて遠征し戦闘した結果でしょう。。。 たぶん日本遠征も越えてしまってたのではないかと• こんにちは、今回も再放送で拝見しました。 「元寇」「蒙古襲来」ともに独特な言葉で、竹崎季長が描かれたあの『蒙古襲来絵詞』が教科書に載っていたこともあり、出来事そのものはとても印象に残っていたのですが、幕末以前にも外国からの脅威に立ち向かった史実として、かつてから大変興味深いと思っていました。 やはり私も「神風」のおかげで勝利したと思っていた口で、この場をお借りして心よりお詫びさせていただきたいと思います。 誠に申し訳ございませんでした。 長年ラグビーファンである私には、あの前回大会のワールドカップで強豪国南アフリカを撃破した日本代表を思い起こさずにはいられませんでした。 10万の軍を1万の軍で破る、まさに「ジャイアントキリング」です!!しかしそれは奇跡ではなく、あの日本代表の選手たちと同じように、日頃からの鍛錬の積み重ねや緻密な戦略によって成しえたことなのだということがよくわかりました。 私は時々、すぐに諦めてしまう癖があるのですが、たとえ大きな壁が立ちはだかろうとも、努力と知恵と工夫で必ず突破できる道があるのだということを教えていただいた気がします。 勇気をもらえる放送ありがとうございました!• この番組を見るまでは。。。 当時の武士も頑張ったんですね、命を懸けて・・・ でもその頑張りがあったからこそ天が神風を吹せた(間に合った)のではないでしょうか? ところで、今年、取り上げてほしい話題があります。 薩摩ネタなので、今年が旬なのではないかなと思います。 私が住んでいる仙台に薩摩藩士7人の墓があります。 伊達政宗の霊廟の入り口近くにあります。 西南戦争に従軍し、敗戦後に官軍に投稿した西郷軍は、 国事犯として305人が仙台の監獄署に護送されたとのことです。 これは仙台だけでなく全国各地にあるようです。 なぜ国事犯の人たちの墓が祭られているのか、 しかも仙台の場合、伊達家の霊廟のすぐそばに? 是非、国事犯の人たちの墓が祭られるようになった秘話を 探って下さい。 (ぜひ仙台に来て『すんだ』でも食べながらロケして下さーい) それと全国にどれ位の薩摩藩士の墓があるのか気になります。 (伊達藩の場合は戊辰戦争では敵味方に分かれて戦った相手なのでけれど・・)• サムライというと現代は雄々しく戦う集団といった感じ。 武士道は江戸時代の倫理観として素晴らしい、と以前高校教師に聞きましたが、明治以降の軍隊教育に利用されたきらいもあります。 生きて虜囚の辱めを受けず、として全滅を美化され、立派に死ね、といった形で多くの犠牲を出しました。 欧米列強の脅威を退けるには日本からみたら朝鮮や満州の領有もやむなし、とはいえ。 以降の歴史をみれば、やはり驕り、だったと思います。 しかし防衛戦争、これは絶対の正義。 領地のためだったとしても、やはり民族的義憤はあったはず。 克己なくして神風も吹かず。 鎌倉武士は立派でした。

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