ち てい りゅう の けん が ん かく。 健心流 (けんしんりゅう)

健心流 (けんしんりゅう)

ち てい りゅう の けん が ん かく

総務省の ホームページに 特別定額給付金の 特設サイトが 開設されました。 特別定額給付金の 特設サイト 特別定額給付金申請書(見本)の多言語版 申請書(しんせいしょ)の 見本(みほん)を 多言語(たげんご)で みることができます。 大分県(おおいたけん)に 住(す)んでいる 外国人(がいこくじん)の みなさんへ 政府(せいふ)は みんなが 新型(しんがた)コロナウイルス(COVID-19)に 困(こま)っているため 1人(ひとり)に 10万円(まんえん)の お金(かね)を 出(だ)すことを 決(き)めました。 2020年(ねん)4月(がつ)27日(にち)時点(じてん)で、「住民基本台帳(じゅうみんきほんだいちょう)」を 登録(とうろく)していること。 2020年(ねん)4月(がつ)27日(にち)時点(じてん)で、有効(ゆうこう)な 「在留(ざいりゅう)カード」を 持(も)っていること。 マイナンバーカードを 使(つか)います。 マイナンバーカードを 持(も)って いない 人(ひと)は インターネットから 申(もう)し込(こ)むことが できません。 1.申請書(しんせいしょ)が みなさんの 住(す)んでいる 市町村(しちょうそん)の 役所(やくしょ)から 届(とど)きます。 本人(ほんにん)が 分(わ)かる 書類(しょるい)の コピーが 必要(ひつよう)です。 例:マイナンバーカード、運転免許証(うんてんめんきょしょう)、健康保険証(けんこうほけんしょう)、在留(ざいりゅう)カード などの コピー 3. お金(かね)を 受(う)け取(と)る 口座(こうざ)の コピーが 必要(ひつよう)です。 例:通帳(つうちょう)や キャッシュカード などの コピー 4.できあがった申請書(しんせいしょ)と 必要(ひつよう)な 書類(しょるい)の コピー をいれて 役所(やくしょ)に 郵便(ゆうびん)で 送(おく)って ください。 受付(うけつけ)が 始(はじ)まった日(ひ)から 3ヶ月以内(さんかげついない)です。 わからないことが あったら、みなさんが 住(す)んでいる 市町村(しちょうそん)の 役所(やくしょ)に 聞(き)いてください。 言語別(げんごべつ)の URLを クリックして ください。 見(み)てください。 動画(どうが)の画面(がめん)になります。 【表示画面(ひょうじがめん)の 例(れい)】.

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健心流 (けんしんりゅう)

ち てい りゅう の けん が ん かく

ヌルハチは『後金(こうきん)の創始者』であり、清の前段階の後金の皇帝でした。 しかし、金(満州族)というのは漢民族を襲撃して支配している過去があるので、 漢民族にとっては屈辱的な名前でした。 そこで国号を『清』に改名するなど、様々な工夫をして中国を統治しようとしました。 ちなみに、実際に当時の中国『明』の皇帝、李自成(りじせい)を倒して明を乗っ取ったのは、3代目順治帝(じゅんちてい)の時代です。 そして4代目の 康熙帝(こうきてい)は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、『 中国の歴代最高の名君』として語り継がれています。 『中国の歴代最高の名君』康熙帝• 再興の環境に恵まれた乾隆帝• 彼につないだ雍正帝 は、『 清の黄金期を作った3帝』と言われています。 『 李自成(りじせい)の乱』だった。 李自成は北京を占領し、明の皇帝たちを自殺に追い込み、明を滅亡させ、皇帝を名乗るようになる。 1644年のことだ。 李自成はせっかく明の皇帝になったのに、すぐに北方の女真族が作った『 清』に支配されることになる。 山海関の防備をしていた呉三桂(ごさんけい)が北方の清を引き込み、李自成軍を北京から追い出してしまい、清王朝が勢いをあげてしまうのである。 呉三桂は『周』を建国して清に反旗を翻すが、滅亡し、清の中国支配が確定することになる。 ヌルハチ 清の初代皇帝は『ヌルハチ』だが、彼はどちらかというと『後金の創始者』であり、清の前段階の『後金』の皇帝だった。 ヌルハチは、満州文字を創製し、軍事・行政制度としての『八旗の制』を確立させ、 1616年に後金国を成立させた。 [ヌルハチ] 八旗の制軍隊を8つに分け、赤、白、青等部隊ごとに色の違う旗を持たせた。 ホンタイジ そして2代目のホンタイジになって、1 636年、国号が『金』から『 清』に変わる。 後金時代の満州族の総数は、わずか30~60万人ほどだったが、それで2億人以上の漢族を支配しなければならなかったので、『八旗の制』や減税措置等の様々な工夫で、彼らを治めようとした。 また、国号だった『金』は、下記の記事で書いたように、 漢民族にとっては屈辱的な名前だったため、それが『清』に変わるというところにも、工夫があったのだ。 初代皇帝 ヌルハチ 1616~1626年 後金を建国 2代目 ホンタイジ 1626~1643年 『清』に改称 3代目 順治帝(じゅんちてい) 1643~1661年 呉三桂の導きで北京に入城。 李自成を倒す。 4代目 康熙帝(こうきてい) 1661~1722年 イエズス会以外の布教を廃止 5代目 雍正帝(ようせいてい) 1722~1735年 キリスト教の布教を廃止 6代目 乾隆帝(けんりゅうてい) 1735~1795年 貿易制限令 順治帝 つまり、李自成を倒して『明』を乗っ取ったのは、順治帝の時代だったわけだ。 そしてホンタイジは、それを見越して先に『清』へと国号を改称していたのである。 もともと明と後金は仲が良かったのだが、李成梁(りせいりょう)の失脚とともに状況が一変し、明が討伐の為に大軍を送り込み、ヌルハチらは、これを『ジャイフィヤンの戦い』で殲滅した。 康熙帝(こうきてい) そして4代目の 康熙帝(こうきてい)は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、『 中国の歴代最高の名君』として語り継がれている。 [康熙帝(こうきてい)] ロシアのピョートル1世から尊敬され、フランスの太陽王、ルイ14世からも熱烈な手紙をもらうなど、各国のトップからも一目置かれていた。 元々ロシアは、清の領土である黒竜江に侵入してしまっていた。 ロシア側からすれば、侵入した国の王を尊敬することになるとは思っていなかっただろう。 そして両国はのちに『 ネルチンスク条約』を結び、互いの国境を定めるようになった。 雍正帝(ようせいてい) 次の5代目皇帝、 雍正帝(ようせいてい)は、その康熙帝の第4子だった。 [雍正帝(ようせいてい)] 激しい後継者争いがあったが、康熙帝の指名によって44歳で帝位に就くのである。 しかし、彼は帝位を争った兄弟や、反目だった重臣たちを粛正。 相変わらず、権力のそばには常に血の流れる話が存在していたのである。 しかし、人格的には良心的であり、先代、そして次の6代目皇帝、 乾隆帝(けんりゅうてい)とともに、『 康熙、雍正、乾隆』と3人セットで『 清の黄金期を作った3帝』と言われることになる。 乾隆帝(けんりゅうてい) 乾隆帝は、• 土地税、塩税、内地関税の大幅な増収• 平和にともなう軍事費の減少• 素朴な宮廷生活による内定費の節減• 官僚の不正に対する厳しい取り締まり• イギリスやヨーロッパ諸国との茶・絹貿易により大量の銀が流入 といった条件によって、とても 懐が豊かになった皇帝だった。 [乾隆帝(けんりゅうてい)] 今までの歴史を見てきても、たとえば『 明』は朝鮮に救助を求められ、日本との長期戦を強いられる。 しかし、軍事費が重なり、財政難に陥る。 更に、宦官の横領が発覚する。 『 宗』は、『西夏(さいか)』や契丹族の『遼(りょう)』相手に、防衛費たる『荒い金遣い』で、財政難を招くことになる。 そして、茶番のように権力に溺れる皇帝たち。 女性に溺れて王朝を滅亡させた皇帝たち 殷(紂王) 妲己に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 周(赧王) 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 晋(司馬炎) 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 唐(玄宗) 楊貴妃に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 そうしたことを考えても、乾隆帝の時代がどれだけ安定しているかということがよくわかるはずである。 また、• モンゴル系のジュンガル王国• 東トルキスタン• 四川省北西部と台湾の反乱• ネパール• ミャンマー• ベトナム こういった反乱を押さえたり、他国の領域を制圧し、しかもすべてを勝利に収めるなど、自ら『十全老人』と名乗るほど、多岐にわたる活躍をしてみせた。 その結果、清の領土は2倍になり、彼の時代に清は最大領域となった。 『 中国の歴代最高の名君』の康熙帝といい、乾隆帝といい、彼につないだ雍正帝といい、この3帝が統治した時代の清は、最も輝いていたということなのである。 また乾隆帝は、『 四庫全書(しこぜんしょ)』、『 欽定二十四史(きんていにじゅうしし』を作り上げたことでも有名だ。 前者は10年、後者は30年以上の時間をかけて、これを作り上げた。 四庫全書は、実に3万6384冊という膨大な数の、中国にあったありとあらゆる本を、一つにまとめるミッションである。 [四庫全書(荘子の書)] だが、清の最盛期もいつまでも続かなかった。 結局、やはりそうした積極的な遠征が重なり、財政難に陥るのだ。 そのころ、イギリスが世界を先駆けて産業革命を達成し、貿易路を拡大させていた。 そして乾隆帝時代の末期、インド産の アヘンが中国内に持ち込まれるようになってしまう。 これが、後の『 アヘン戦争』の原因となる。 [乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』より)].

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おおいた国際交流プラザ

ち てい りゅう の けん が ん かく

舞台・時代背景 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ )』の舞台は中国、時代は 漢 ( かん )の時代になります。 漢 ( かん )は1度 滅 ( ほろ )んでしまいますので、 滅 ( ほろ )びる前を 前漢 ( ぜんかん )、 再興 ( さいこう )した後の 漢 ( かん )を 後漢 ( ごかん )と言います。 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ )』の物語は、 後漢 ( ごかん )の末期(180年頃)から始まります。 スポンサーリンク 黄巾の乱 後漢 ( ごかん )の 霊帝 ( れいてい )の時代、 汚職 ( おしょく )が横行して 宦官 ( かんがん )や高級官僚たちが私腹を 肥 ( こ )やしていたため、民衆には不満が蓄積されていました。 疲弊 ( ひへい )した民衆は 太平道 ( たいへいどう )という 新興宗教 ( しんこうしゅうきょう )に救いを求め、その信者は 瞬 ( またた )く間に中国全土に広まっていきます。 そして、 太平道 ( たいへいどう )の教祖・ 張角 ( ちょうかく )は大きく 膨 ( ふく )れあがった信者たちを 扇動 ( せんどう )し、後漢王朝に反乱を起こしました。 信者たちはみんな黄色い頭巾をつけていたことから、この反乱のことを 黄巾の乱と言います。 その頃、 漢 ( かん )の皇室の 末裔 ( まつえい )である 劉備 ( りゅうび )は落ちぶれて平民となっていましたが、2人の 豪傑 ( ごうけつ )・ 関羽 ( かんう )、 張飛 ( ちょうひ )と義兄弟の誓いを立て、義勇軍を結成して黄巾の乱の鎮圧のために活躍します。 官軍や各地の義勇軍の活躍によって、黄巾の乱はわずか1年で平定されました。 スポンサーリンク 董卓の支配 霊帝 ( れいてい )が亡くなると、後継者争いの混乱につけ込んで悪名高い 董卓 ( とうたく )が 後漢 ( ごかん )の首都・ 洛陽 ( らくよう )にやってきます。 董卓 ( とうたく )は 跡 ( あと )を 継 ( つ )いだばかりの皇帝を廃位して幼い 献帝 ( けんてい )を皇帝の位につけ、自分が後見人となって政治の実権を握りました。 朝廷の高官たちは 董卓 ( とうたく )の残忍で 傍若無人 ( ぼうじゃくぶじん )な振る舞いに怒りを覚えますが、 側 ( そば )には猛将・ 呂布 ( りょふ )がいて誰も逆らえません。 後漢の 司徒 ( しと )・ 王允 ( おういん ) ( )は、 曹操 ( そうそう )に家宝の 七星宝刀を託して 董卓 ( とうたく )の暗殺を試みますが、暗殺に失敗した 曹操 ( そうそう )は 洛陽 ( らくよう )から逃げ出しました。 反董卓連合軍 洛陽 ( らくよう )から逃げ出した 曹操 ( そうそう )は、 偽 ( にせ )の 詔 ( みことのり )を使って「 董卓 ( とうたく )を倒そう!」と諸侯に呼びかけます。 この呼びかけに名門の 袁紹 ( えんしょう )、 袁術 ( えんじゅつ )をはじめ多数の諸侯が集まり、 袁紹 ( えんしょう )を盟主とする「 反董卓連合」が結成されました。 黄巾の乱で活躍した 劉備 ( りゅうび )・ 関羽 ( かんう )・ 張飛 ( ちょうひ )も参加しています。 劉備 ( りゅうび )たちの活躍で劣勢となった 董卓 ( とうたく )は、 洛陽 ( らくよう )を焼き払って 長安 ( ちょうあん )に 遷都 ( せんと )します。 長安 ( ちょうあん )への 遷都 ( せんと )という絶好の機会にも戦おうとしない盟主・ 袁紹 ( えんしょう )にしびれを切らした 曹操 ( そうそう )は、単独で追撃を 敢行 ( かんこう )しますが大敗してしまいました。 やがて「反董卓連合」は、仲間割れを起こして目的を達することなく解散してしまいます。 董卓の死、呂布と貂蝉 一方、 董卓 ( とうたく )の暗殺に失敗した 王允 ( おういん ) ( )は、絶世の美女である養女・ 貂蝉 ( ちょうせん )の協力を得て一計を案じます。 貂蝉 ( ちょうせん )は 王允 ( おういん ) ( )の屋敷を訪れた 董卓 ( とうたく )配下の猛将・ 呂布 ( りょふ )に近づくと、 貂蝉 ( ちょうせん )に一目惚れした 呂布 ( りょふ )と結婚の約束をしました。 一方、 王允 ( おういん ) ( )は 董卓 ( とうたく )を屋敷に招いて 貂蝉 ( ちょうせん )に酌をさせると、女好きの 董卓 ( とうたく )は 貂蝉 ( ちょうせん )が気になって仕方ありません。 それを見た 王允 ( おういん ) ( )が 董卓 ( とうたく )に 貂蝉 ( ちょうせん )を献上すると、 董卓 ( とうたく )は喜んで連れて帰りました。 董卓 ( とうたく )が 貂蝉 ( ちょうせん )を連れ帰ったことを知った 呂布 ( りょふ )は激怒して 王允 ( おういん ) ( )を問いただしますが、 王允 ( おういん ) ( )が「 董卓 ( とうたく )には逆らえなかった」と泣きつくと 呂布 ( りょふ )も引き下がらずを得ません。 そして、 貂蝉 ( ちょうせん )を諦め切れない 呂布 ( りょふ )は何度も 貂蝉 ( ちょうせん )と密会して 董卓 ( とうたく )の怒りを買い、2人は反目してとうとう 呂布 ( りょふ )は 董卓 ( とうたく )を殺してしまいました。 官渡の戦い 群雄割拠 董卓 ( とうたく )が死ぬと、 董卓 ( とうたく )の部下の 李傕 ( りかく )と 郭汜 ( かくし )が 長安 ( ちょうあん )を攻め、 王允 ( おういん ) ( )は殺されて 呂布 ( りょふ )は長安を脱出しました。 幼い 献帝 ( けんてい )は 李傕 ( りかく )・ 郭汜 ( かくし )の手に握られることになります。 ですが、 李傕 ( りかく )と 郭汜 ( かくし )が仲間割れをしている隙に 献帝 ( けんてい )は 長安 ( ちょうあん )を脱出し、 曹操 ( そうそう )に保護されて 許都 ( きょと )に移されました。 諸侯は自勢力の拡大に夢中になり、やがて 冀州 ( きしゅう )・ 幽州 ( ゆうしゅう )・ 并州 ( へいしゅう )・ 青州 ( せいしゅう )を手に入れた 袁紹 ( えんしょう )と、 兗州 ( えんしゅう )・ 豫州 ( よしゅう )・ 司隷 ( しれい )・ 徐州 ( じょしゅう )を手に入れた 曹操 ( そうそう )の間で緊張が高まっていきます。 200年頃の有力勢力・勢力図 関羽の千里行 先の戦いで 曹操 ( そうそう )に敗北した 劉備 ( りゅうび )軍は、3兄弟が散り散りになって生死も分からない状態でした。 曹操 ( そうそう )軍に囲まれた 関羽 ( かんう )は、• 曹操 ( そうそう )に降るのではなく漢王朝に降ること• 劉備 ( りゅうび )の妻子を丁重に扱うこと• 劉備 ( りゅうび )の消息がつかめたら 劉備 ( りゅうび )のもとへ帰ること という3つの条件を出して、 曹操 ( そうそう )に降伏していました。 曹操 ( そうそう )はなんとか 関羽 ( かんう )を自分の配下にしようと贈り物をしますが、 関羽 ( かんう )は一切受け取りません。 そんな中、 袁紹 ( えんしょう )は 曹操 ( そうそう )を糾弾する檄文を送りつけ、 曹操 ( そうそう )に宣戦布告します。 官渡の戦いの始まりです。 袁紹 ( えんしょう )は、 顔良 ( がんりょう )・ 文醜 ( ぶんしゅう )の2人の猛将の働きで勝利を重ね、 曹操 ( そうそう )は劣勢を強いられます。 そこへ 関羽 ( かんう )が進み出て、 顔良 ( がんりょう )・ 文醜 ( ぶんしゅう )の2将を斬ると、 曹操 ( そうそう )軍は勢いを盛り返すことができました。 袁紹 ( えんしょう )に身を寄せていた 劉備 ( りゅうび )は、戦場で 曹操 ( そうそう )軍の中に 関羽 ( かんう )をみつけ、 関羽 ( かんう )に自分の消息を知らせる手紙を送ります。 手紙を見た 関羽 ( かんう )が 曹操 ( そうそう )のもとを去ることを告げると、 曹操 ( そうそう )は 関羽 ( かんう )の忠義に感心し、 自 ( みずか )ら送り出しました。 劉備 ( りゅうび )のもとへと急ぐ 関羽 ( かんう )ですが、 曹操 ( そうそう )から通行手形を貰っていなかったため、関所で止められてしまいます。 劉備 ( りゅうび )と再会するために、 関羽 ( かんう )は5つの関所を破ることになりました。 烏巣の急襲 顔良 ( がんりょう )・ 文醜 ( ぶんしゅう )を失うと、優柔不断な 袁紹 ( えんしょう )は戦いを決断できなくなって度々意見を変えたので、参謀たちは短期決戦派と持久戦派に分かれて対立するようになりました。 曹操 ( そうそう )軍の方でも兵糧が枯渇し、撤退も考えていましたが、 袁紹 ( えんしょう )の参謀の一人である 許攸 ( きょゆう )が 曹操 ( そうそう )に内通したことで状況が一変します。 曹操 ( そうそう )は 許攸 ( きょゆう )がもたらした情報を元に 袁紹 ( えんしょう )軍の兵糧が備蓄されている 烏巣 ( うそう )を強襲し、 袁紹 ( えんしょう )は撤退を余儀なくされました。 赤壁の戦い 三顧の礼 袁紹 ( えんしょう )のもとを離れ、かつての臣下たちと再会した 劉備 ( りゅうび )は、今度は 荊州 ( けいしゅう )の 劉表 ( りゅうひょう )を頼ることにしました。 劉表 ( りゅうひょう )は 劉備 ( りゅうび )を歓迎し、対 曹操 ( そうそう )の最前線である 新野 ( しんや )の守りを任せます。 新野 ( しんや )で 水鏡 ( すいきょう )先生( 司馬徽 ( しばき ))に出会った 劉備 ( りゅうび )は、自分の陣営に知謀の持ち主がいないことを指摘され、「どちらか1人を得れば天下を獲れる」と言われている 臥龍 ( がりょう )と 鳳雛 ( ほうすう )という2人の男の存在を知らされました。 軍師 ( ぐんし )(参謀)となる人物を探す 劉備 ( りゅうび )に、 新野 ( しんや )から程近い 隆中 ( りゅうちゅう )に、 諸葛亮 ( しょかつりょう )という賢人が住んでいるという情報が入ります。 劉備 ( りゅうび )は 関羽 ( かんう )・ 張飛 ( ちょうひ )を連れて、 隆中 ( りゅうちゅう )の 諸葛亮 ( しょかつりょう )の 庵 ( いおり )を訪ねますが、あいにく 諸葛亮 ( しょかつりょう )は留守でした。 3度目の訪問でようやく 諸葛亮 ( しょかつりょう )に会うことができた 劉備 ( りゅうび )は、 諸葛亮 ( しょかつりょう )に自分の 軍師 ( ぐんし )になってくれるように懇願します。 最初は渋っていた 諸葛亮 ( しょかつりょう )ですが、 劉備 ( りゅうび )の熱意に負けて、 荊州 ( けいしゅう )と 蜀 ( しょく )を奪って東の 孫権 ( そんけん )と結び、北の 曹操 ( そうそう )に対抗する 「天下三分の計」を示して 劉備 ( りゅうび )の 軍師 ( ぐんし )になりました。 長坂坡(ちょうはんは)の戦い 劉備 ( りゅうび )が 諸葛亮 ( しょかつりょう )を 軍師 ( ぐんし )に迎えた頃、最大のライバルであった 袁紹 ( えんしょう )を滅ぼした 曹操 ( そうそう )は、次の目標を 荊州 ( けいしゅう )に定めて南下を始めました。 諸葛亮 ( しょかつりょう )の計略で1度は撃退した 劉備 ( りゅうび )ですが、 劉表 ( りゅうひょう )の跡を継いだ 劉琮 ( りゅうそう )が降伏したため、やむを得ず 新野 ( しんや )を捨てて、 江夏 ( こうか )の 劉琦 ( りゅうき )を頼りました。 江夏 ( こうか )を目指す 劉備 ( りゅうび )軍ですが、 劉備 ( りゅうび )を慕ってついてきた 新野 ( しんや )の領民がいるために 曹操 ( そうそう )軍にすぐに追いつかれてしまいました。 劉備 ( りゅうび )の妻子の護衛を任されていた 趙雲 ( ちょううん )は 劉備 ( りゅうび )の息子・ 阿斗 ( あと )を抱き、群がる 曹操 ( そうそう )軍の中を突破します。 長坂橋で待ち受けていた 張飛 ( ちょうひ )は、単騎で駆けてくる 趙雲 ( ちょううん )を通すと、ただ1人橋の上に立って 曹操 ( そうそう )軍を一喝します。 張飛 ( ちょうひ )の武勇を恐れた 曹操 ( そうそう )軍は一時撤退し、時間を稼ぐことに成功しました。 208年頃の有力勢力・勢力図 諸葛亮、呉に使者に立つ 江夏 ( こうか )にたどり着いた 劉備 ( りゅうび )ですが、このままでは 曹操 ( そうそう )にひと揉みに潰されてしまいます。 また、 荊州 ( けいしゅう )の次に狙われるのは 呉 ( ご )( 揚州 ( ようしゅう ))ではないかと、 孫権 ( そんけん )の臣下の 魯粛 ( ろしゅく )が様子を伺いにきました。 諸葛亮 ( しょかつりょう )は、 呉 ( ご )の 孫権 ( そんけん )と結んで共に 曹操 ( そうそう )と戦うことを提案し、 魯粛 ( ろしゅく )と一緒に 自 ( みずか )ら使者として 呉 ( ご )に 赴 ( おもむ )きます。 呉 ( ご )に着いてみると、 呉 ( ご )の臣下は主戦派と降伏派に分かれて連日議論が行われ、 孫権 ( そんけん )も決めかねています。 諸葛亮 ( しょかつりょう )は降伏派の臣下を鮮やかに論破して、 孫権 ( そんけん )に 曹操 ( そうそう )との対決を決意させました。 赤壁の戦い 曹操 ( そうそう )軍が長江・ 赤壁 ( せきへき )の対岸に布陣すると、 孫権 ( そんけん )は、 周瑜 ( しゅうゆ )を 大都督 ( だいととく )に任命して作戦を一任しました。 周瑜 ( しゅうゆ )は 曹操 ( そうそう )軍を火計で打ち破りたいと考えていたのですが、この季節は北風が強く、火は 呉 ( ご )軍の方に燃え広がってしまうことが悩みでした。 諸葛亮 ( しょかつりょう )は 周瑜 ( しゅうゆ )の作戦を言い当てると、 曹操 ( そうそう )軍へと向かう東南の風を吹かせる約束をして祈祷を始めます。 諸葛亮 ( しょかつりょう )の術で東南の風が吹くと、 呉 ( ご )軍は 曹操 ( そうそう )軍の軍船の大半を焼き払い、 呉 ( ご )軍の大勝利となりました。 荊州争奪戦 呉 ( ご )軍が 赤壁 ( せきへき )で勝利すると、 劉備 ( りゅうび )は 曹操 ( そうそう )軍の混乱に乗じて 南郡 ( なんぐん )・ 武陵 ( ぶりょう )・ 長沙 ( ちょうさ )・ 零陵 ( れいりょう )・ 桂陽 ( けいよう )の5郡を奪い取ってしまいます。 孫権 ( そんけん )は、国を挙げて 曹操 ( そうそう )軍に大打撃を与えたのだから、 荊州 ( けいしゅう )は 呉 ( ご )のものになるべきだと主張し、 荊州 ( けいしゅう )は 劉備 ( りゅうび )が 蜀 ( しょく )( 益州 ( えきしゅう ))を手に入れたら 呉 ( ご )に返すということで落ち着きました。 赤壁の戦い後の有力勢力・勢力図 劉備、蜀に入る 曹操、馬超を破る 赤壁の戦いで敗北した 曹操 ( そうそう )は、今度は 西涼 ( せいりょう )( 涼州 ( りょうしゅう ))の 馬騰 ( ばとう )に目標を定め、 馬騰 ( ばとう )を 許都 ( きょと )に呼び出して殺してしまいます。 馬騰 ( ばとう )が殺されたことを知ると、息子の 馬超 ( ばちょう )は 韓遂 ( かんすい )と共に 長安 ( ちょうあん )に攻め上り、一時は 曹操 ( そうそう )を追い込みますが、 曹操 ( そうそう )の計略によって 韓遂 ( かんすい )と仲間割れを起こして敗走しました。 劉備、蜀を得る 曹操 ( そうそう )に敗れて拠点を失った 馬超 ( ばちょう )が 漢中 ( かんちゅう )の 張魯 ( ちょうろ )を頼ると、 張魯 ( ちょうろ )は 馬超 ( ばちょう )の武勇を頼みに 蜀 ( しょく )( 益州 ( えきしゅう ))に攻め込む動きを見せ始めます。 馬超 ( ばちょう )の来襲に怯える 益州牧 ( えきしゅうぼく )・ 劉璋 ( りゅうしょう )は、 荊州 ( けいしゅう )の 劉備 ( りゅうび )に援軍を求めることにしました。 ですが、 劉備 ( りゅうび )は援軍として 蜀 ( しょく )に入ると 馬超 ( ばちょう )を味方につけ、 益州 ( えきしゅう )の州都・ 成都 ( せいと )を包囲して 劉璋 ( りゅうしょう )を降伏させました。 三国鼎立(さんごくていりつ) 樊城(はんじょう)の戦い 劉備 ( りゅうび )が 蜀 ( しょく )に入ると、また 呉 ( ご )の 孫権 ( そんけん )が 荊州 ( けいしゅう )の返還を求めてきましたが、 劉備 ( りゅうび )がなかなか返そうとせず、 劉備 ( りゅうび )と 孫権 ( そんけん )の関係が悪化してしまいます。 ですが、その隙をついて 曹操 ( そうそう )が 漢中 ( かんちゅう )に侵攻したため、 劉備 ( りゅうび )は 長沙 ( ちょうさ )・ 桂陽 ( けいよう )の2郡を返還して 孫権 ( そんけん )と和睦しました。 孫権 ( そんけん )と手を結び東の憂いがなくなった 劉備 ( りゅうび )は、 漢中 ( かんちゅう )を攻め取って 漢中王 ( かんちゅうおう )を名乗りました。 劉備 ( りゅうび )が 漢中 ( かんちゅう )を取り 漢中王 ( かんちゅうおう )を名乗ったことで、 荊州 ( けいしゅう )を任されていた 関羽 ( かんう )は「自分も手柄を立てたい!」と、独断で 魏 ( ぎ )( 曹操 ( そうそう ))の 樊城 ( はんじょう )に攻め込みました。 これによって 荊州 ( けいしゅう )の守備が手薄になると、 孫権 ( そんけん )は同盟を破棄。 背後から攻撃して 関羽 ( かんう )を殺し、 荊州 ( けいしゅう )を奪い取ってしまいます。 後漢の滅亡 孫権 ( そんけん )は 劉備 ( りゅうび )の怒りの矛先をそらすため、 曹操 ( そうそう )に 関羽 ( かんう )の首を送りますが、 曹操 ( そうそう )は手厚く弔いました。 その後、 曹操 ( そうそう )は64歳で亡くなってしまいます。 跡を継いだ 曹丕 ( そうひ )は 献帝 ( けんてい )に 禅譲 ( ぜんじょう )を迫り、皇帝となって 魏 ( ぎ )の国を建国しました。 これにより、後漢王朝は完全に終焉を迎えたことになります。 曹丕 ( そうひ )の即位を受け、漢の皇室の末裔である 劉備 ( りゅうび )は、後漢を正統に受け継ぐ国として 蜀漢 ( しょくかん )( 蜀 ( しょく ))を建国して帝位につきました。 夷陵(いりょう)の戦い 劉備 ( りゅうび )は 諸葛亮 ( しょかつりょう )ら多くの臣下が反対する中、 関羽 ( かんう )の仇討ちとして 呉 ( ご )に出兵を敢行します。 序盤は勝利を重ねる 劉備 ( りゅうび )ですが、 呉 ( ご )の 陸遜 ( りくそん )の火計を受けて大敗。 退却の途中に発病し、立ち寄った 白帝城 ( はくていじょう )に 諸葛亮 ( しょかつりょう )を呼んで、後事を託して亡くなりました。 その後、 孫権 ( そんけん )も 呉 ( ご )を建国して皇帝の位についたので、中国大陸に1人しか存在しないはずの皇帝が、3人並び立つ状態となりました。 三国鼎立時の有力勢力・勢力図 統一への動き 諸葛亮の北伐 劉備 ( りゅうび )亡き後、 蜀漢 ( しょくかん )は子の 劉禅 ( りゅうぜん )が後を継ぎ、 諸葛亮 ( しょかつりょう )が国政の全権を握って、先帝の遺志である 魏 ( ぎ )の討伐を目指すことになります。 諸葛亮 ( しょかつりょう )はまず 呉 ( ご )と和睦して同盟を結びなおし、度々反乱を起こす 南蛮 ( なんばん )( 蜀 ( しょく )南部の異民族)の 孟獲 ( もうかく )を心服させて、後顧の憂いを取り除きました。 諸葛亮 ( しょかつりょう )は5度に渡って北伐を行いましたが、 蜀 ( しょく )軍を迎え撃つ 魏 ( ぎ )軍には、 諸葛亮 ( しょかつりょう )に匹敵する知恵者の 司馬懿 ( しばい )がおり、 諸葛亮 ( しょかつりょう )は決定的な勝利を得られぬまま、5度目の北伐の最中に亡くなってしまいます。 諸葛亮 ( しょかつりょう )の死後、遺志を継いだ 姜維 ( きょうい )らによって北伐が続けられましたが、 劉禅 ( りゅうぜん )が 宦官の 黄皓 ( こうこう )を重用したため、国政が乱れて 蜀漢 ( しょくかん )の国力は一気に衰退してしまいました。 司馬一族の台頭 魏 ( ぎ )では帝位についた 曹丕 ( そうひ )に続いて、第2代皇帝・ 曹叡 ( そうえい )も早世し、8歳の 曹芳 ( そうほう )が皇帝になっていました。 政治の実権は曹一族の 曹爽 ( そうそう )が握っていましたが、 司馬懿 ( しばい )のクーデターによって司馬一族の手に移り、皇帝の権力を取り戻そうとした 曹芳 ( そうほう )を廃位して 曹髦 ( そうぼう )を皇帝につけました。 司馬懿 ( しばい )が亡くなると、その実権は子の 司馬師 ( しばし )、弟の 司馬昭 ( しばしょう )へと引き継がれます。 また、 司馬昭 ( しばしょう )に逆らった皇帝・ 曹髦 ( そうぼう )は殺され、 曹奐 ( そうかん )が皇帝になりました。 三国時代の終焉 国内を盤石とした 司馬昭 ( しばしょう )は、 蜀漢 ( しょくかん )を攻めて 劉禅 ( りゅうぜん )を降伏させ、 蜀漢 ( しょくかん )は滅亡してしまいます。 司馬昭 ( しばしょう )が亡くなると、子の 司馬炎 ( しばえん )が 曹奐 ( そうかん )に 禅譲 ( ぜんじょう )を迫り、皇帝となって 晋 ( しん )( 西晋 ( せいしん ))を建国しました。 呉 ( ご )では 孫権 ( そんけん )が亡くなると、 孫亮 ( そんりょう )、 孫休 ( そんきゅう )、 孫晧 ( そんこう )と代を重ねていましたが、280年、 晋 ( しん )の侵攻を受けた 孫晧 ( そんこう )が降伏。 黄巾の乱から始まった約100年の戦乱の時代は終焉を迎え、中国大陸は 晋 ( しん )によって統一されました。 スポンサーリンク.

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