多摩川水位 二子玉川。 多摩川のライブカメラや水位(リアルタイム)は?二子玉川・日野橋・田園調布は?

鶴見川と多摩川、どこで差がついたのか

多摩川水位 二子玉川

葛飾北斎『』より「武州玉川」 『』所載の東歌に「多麻河」が登場する。 に朝廷が発したでは、近傍をもって「石瀬河」と呼称されている。 上流の「丹波川(たばがわ)」との近似はよく言われることである。 には同音の字を使って 玉川(たまがわ)の名が使われることが多かった。 そのため、現代でも玉川の名は、やといった施設名や地名などに多く残る。 名称の由来は諸説あり、よくわかっていない。 また、「」の名前はこの川から来たと見られる。 最も有力であるのはから起こったという説である。 そこから上流の川の名である「丹波川」(たばがわ)が生まれ、人が上流部から中流部へ移動することと伴い、転訛して「たまがわ」となった。 「タバ」とはので「」を指す言葉で、多摩川の場合は丹波山峠を指すと言われる。 また、中流部の人が「タバ」から流れてきたこの川を「タバ川」と呼ぶ可能性もあると見られる。 「タマ」とは「」のことで、つまり多摩川は「霊力をもつ川」「神聖なる川」である。 のであるの近くを流れ、のためのを提供していたことから名付けられたと言われる。 が取り憑く神聖な川から来た説もある。 また、昔にこの地に定住していた部族がを信仰していたため、神聖な地として「」(たまのこおり)、神聖な川として「霊の川」と呼ぶようになったという説もある。 「タマ」とは「・美しいもの・優れているもの」を指す言葉で、この川の流れが「玉のように美しくきれい」であることから、「玉川」と名付けられた。 「タマ」とは「渟り」(たまり)から一部が脱落した言葉である。 水の欠乏に悩んだ古代人は多摩川の大きさに驚いて、「溜まれる水」と賛嘆したことに由来する。 「タマ」とは「田間」、つまり「が広がっている所」のことで、「」「」と同源である。 ただし、この説では「多摩郡」の名前が先で、そこを流れる川として「多摩川」の名前が出たと見られる。 地理 [ ] 河口にはがある。 特にD滑走路は多摩川の流路の延長上にあるため流れを妨げない特殊な構造となっている。 源流と小河内ダム [ ] ・の県境にある(かさとりやま)(1953)山頂の南斜面下「水干」(みずひ)を源とする。 上流部ではから流れ込んでくる柳沢川と合流するまで 一之瀬川(いちのせがわ)と、そこから下流は 丹波川(たばがわ)と呼ばれ、に注ぐ。 上流 [ ] 多摩川と呼ばれているのはの湖水の出口であるより下流からである。 その後、東京都までは山中を東へ流れる。 この上流部はに含まれる。 この区間に沿ってが走っている。 周辺は(60年) 御岳渓流としての一つに選定されていて 両岸には、約4kmの遊歩道が整備されている。 東京都白丸にはがある。 中流 [ ] 青梅からは概ね南東にとの間を、瀬と淵を繰り返しながら流れ下っていく。 左岸ののは、かつての多摩川が造ったものである。 段丘崖は下から、と呼ばれ、立川崖線の下を多摩川低地、両崖線の間を立川面、最上段を武蔵野面と呼ぶ。 東京都からへと取水される付近や青柳付近での多摩川は武蔵野台地の低位面に直接ぶつかって流れている。 また、の大栗川合流点から鉄橋・多摩川鉄橋の上流付近まではに直接ぶつかっている。 東京都、神奈川県からは東京都と神奈川県の都県境を流れ、両岸とも低地になる。 川崎市多摩区から東京都にかけては、多摩川が運んだ礫層が地表に近いため水はけが良く、栽培に適したがになっている。 特に川崎市と東京都が生産の中心となっていて として知られているが、市場にはあまり出回らず、多くは直売されている。 下流 [ ] 東京都と川崎市との境でに注ぐ。 河口の左岸に(羽田空港)がある。 下流部のうち、から下流については、特に東京側の流域の人々によって 六郷川(ろくごうがわ)と呼ばれている。 右岸の河口(水準拠標)は川崎区殿町の水位観測所 にあり、「海から20K」といった標識の原点となっている。 地形としてはさらに 3kmほど下った付近でに注いでいる。 分水界 [ ] 多摩川水系の北側のはからの山中ではとの県境を、武蔵野台地では武蔵野面の南縁に近いところを走っていて、はほぼそれに沿う形で開削されている。 源流から、下流の内上流寄り(付近)まではと分水界を接し、下流の内河口寄り(付近より下流)ではやと分水界を接する。 すなわち武蔵野台地の高位面である武蔵野面に降った雨は地表を流れる分については多摩川にはほとんど注ぐことがない。 多摩川の名残川であろうと推定されている流路を伝ってに注いでいる。 一方、南側の分水界はからの中を通っている。 中流以降の多摩川の支流は、圧倒的に右岸に集中している。 多摩川水系最大の流域面積を持つ秋川も、最も幹線流路延長の大きい浅川も右岸にある。 これは関東平野が周辺部が隆起し中央部が沈み込んでいることの影響である。 南側の分水界は上流部ではやと中流以降ではやの分水界と接している。 崖線と湧水 [ ] 「」も参照 崖線(多摩川中流域では「 ハケ」あるいは「 ママ」と呼んでいる)下では至るところから湧水が湧き出している。 それらの湧水を集めているのが中流以降の左岸では最も大きい支流であるである。 JR付近にあるいくつかの泉を源流としてほぼに沿って湧水を集めながら流れて行き、1丁目先で本流に合流している。 下でも同様に湧水を集めた流れがあるが、ここでの主役はをはじめとするいくつかの用水路である。 小河内ダムより下流• したくら橋• 境橋( )• 檜村橋(国道411号 青梅街道)• 琴浦橋(国道411号 青梅街道)• 笹平橋(国道411号 青梅街道)• 愛宕大橋()• 弁天橋(国道411号 青梅街道)• 南氷川橋(国道411号 青梅街道)• 登計橋(人道橋)• 昭和橋(東京都道184号奥多摩あきる野線)• もえぎ橋• 海沢橋• 海沢大橋(東京都道184号奥多摩あきる野線)• 数馬峡橋• 鳩ノ巣小橋• 雲仙橋• 鳩ノ巣大橋• 将門大橋()• 寸庭橋• 万世橋()• 奥多摩大橋(東京都道45号奥多摩青梅線)• 梅沢橋• 神路橋• 杣の小橋• 御岳橋()• 御岳小橋• 鵜の瀬橋• 軍畑大橋()• 奥多摩橋()• 好文橋• 神代橋()• 和田橋()• 万年橋(国道411号)( これより上流は、下流はが管理)• 柳淵橋• 鮎美橋• 調布橋( 秋川街道)• 下奥多摩橋( 下奥多摩橋通)• 圏央道多摩川橋()• 友田水管橋• 多摩川橋( )• 管理橋• 羽村堰下橋• 羽村大橋()• 永田橋(・)• 多摩橋( )• JR五日市線多摩川橋梁(JR)• 睦橋( 睦橋通り)• 拝島水道橋(多摩川横断水道橋)• 拝島橋( 東京環状)• JR(JR)• JR(JR)• (/)• ( ()・)• (バイパス)• ( /)• JR武蔵野線多摩川橋梁(JR)• JR南武線多摩川橋梁(JR)• ( )• (神奈川県道・東京都道9号川崎府中線)• ( 鶴川街道)• 京王相模原線多摩川橋梁()• ( 世田谷通/津久井道)• ( 厚木街道/)• (玉川通り/旧大山街道)• (・)• ( )• JR()• JR(JR・・)• ( ガス橋通り)• ( )• :・共用の専用橋• JR(JR)• JR(JR)• 京急本線六郷川橋梁()• ( 第一京浜)• ( 産業道路)• JR東海道貨物線(-ルート)• なお、新多摩川大橋と東急東横線多摩川橋梁の間において、新橋の建設計画が持ち上がっている。 と都市計画道路を橋によって延伸・連結する計画である。 河原のホームレスのテント 渡船 [ ] 江戸時代には39箇所のがあった。 現在では全て廃止されている。 (上流)• 沢井の渡し - 廃止年不詳• 軍畑の渡し - 廃止年不詳• 竹の下の渡し - ()廃止• 大柳の渡し - ()木製の万年橋架橋に伴い廃止• 千ヶ瀬の渡し - ()調布橋架橋に伴い廃止• 河辺の渡し - ()下奥多摩橋架橋に伴い廃止• 友田の渡し - ()多摩川橋架橋に伴い廃止• 福生の渡し - ()永田橋架橋(仮橋は昭和25年頃に架橋された)に伴い廃止• 牛浜の渡し(石浜の渡し) - 500メートル上流に多摩橋が架橋、さらにが敷かれて廃止• 熊川の渡し(小川の渡し) - 年間に伊那道であるの移転に伴い廃止 (後に架橋)• 滝の渡し - 廃止年不詳、都市化によるとされる• 拝島の渡し - との日光往還道だったが()拝島橋架橋に伴い廃止• 大神の渡し(平の渡し) - 廃止年不詳、都市化によるとされる• 福島の渡し(築地の渡し) - ()廃止。 都市化によるとされる• 柴崎の渡し - 古鎌倉道であったが、鎌倉幕府滅亡により廃止 、後世にが架橋• 日野の渡し - 甲州街道(万願寺の渡し参照)• 万願寺の渡し - ()甲州街道の古道であったが架橋により日野の渡しとともに廃止• 石田の渡し - 甲州街道の古道であったが江戸初期の年間、街道移転により廃止• 一の宮の渡し - ()以降に廃止、都市化によるとされる• 関戸の渡し - ()の架橋に伴い廃止• 是政の渡し - ()の架橋に伴い廃止• 常久河原の渡し - 廃止年不詳、作業渡しとして利用されていたが周辺架橋により廃止• 押立の渡し - ()稲毛道(旧綱島街道)だったが周辺架橋により廃止• 上菅の渡し(矢野口の渡し) - ()架橋に伴い下菅の渡しと同時に廃止• 菅の渡し - ()開通に伴い廃止• 下菅の渡し - 上菅の渡しと同時に廃止• 中ノ島の渡し - 昭和10年ごろ廃止• 登戸の渡し - 昭和28年ごろ廃止(架橋)• の渡し - 廃止年不詳• 二子の渡し - ()の架橋に伴い廃止• 諏訪の渡し - 廃止年不詳• 北見方の渡し - 廃止年不詳• 下野毛の渡し - 昭和30年ごろ廃止• (東急ゴルフ場渡船 - 下記参照)• 宮内の渡し - 丸子の渡し参照• 丸子の渡し - ()架橋に伴い丸子の宮内の渡しと同時に廃止• 中丸子の渡し - 大正15年ごろ廃止• 平間の渡し - ()架橋に伴い廃止• 矢口の渡し - ()鎌倉街道の架橋に伴い廃止• 小向の渡し - 大正10年ごろ廃止• 六郷の渡し - ()の左内橋(後の)架橋に伴い廃止• 大師の渡し - ()架橋に伴い廃止• 羽田の渡し(六左衛門の渡し、六稲荷の渡し) - 大師の渡しと同時に廃止 (下流) 公共交通ではない渡船としては現在、東急ゴルフ場(下野毛)内でゴルフ場利用者向けの渡船が運航されている(クラブハウスが東京都側にあるため)。 また地域おこしのために渡船を復活させようという取り組みが一部地域で検討されている。 利用 [ ]• かつてはを売って収入とする砂利採取が行われていた。 飲用水として多摩川から取水が行われている。 なお東京都のは約8割が利根川水系及び荒川水系(はによっての水も導水されている)、約2割が多摩川水系である。 施設として、河原に多摩川の水を利用した公園が設置されている。 河原を無断占有してを作ったり、住居を設置したりする人もいる。 関東各地から遠征してきた釣り師が集まる。 ただ、この川は特に悪質な釣り師が多いという。 彼らが暴言を吐きながらに石を投げつけるなどの行為も発生した。 レジャーの釣りなどの遊漁料は、多摩川の収入源となっている。 歴史 [ ] 『江戸近郊八景』より「玉川秋月」。 現在の近辺から方面を望んだものであるという。 多摩川は中流以降、青梅を扇頂とする広大なを形成し、現在のの基盤となった。 また、その他にあった全ての丘陵(を除く)を削り去り平坦な地を作った。 その後、武蔵野台地の隆起により、多摩川中流は台地の南縁へ押しやられ現在のように多摩丘陵の北縁を流れるようになった。 流域では以降のやが見つかっており、沿川には早くから人が定住していた様子がうかがえる。 歌枕としての多摩川 [ ] には多摩川は「六玉川(むたまがわ)」の一つ、「調布の玉川」として知られ、多摩川にまつわるが『』をはじめとする勅撰歌集に数多く収録された。 伝承・宗教 [ ] 多摩川にまつわる民間伝承や宗教的な言説は少なくない。 代表的なものとしては、系の宗教集団内において数多く描かれたの入滅図がある。 日蓮は9月に瀬谷で多摩川を渡り、現在のの場所にあった信徒の邸宅に入って翌月にそこで。 その後、入滅図に見立てた日蓮入滅図が数多く描かれ、それらに多摩川が描かれることとなった。 また多摩川流域には、多摩川から引き上げられたとされる本尊や神体を祀った神社や仏閣が10以上も存在する。 最も上流にあるのは東京都の関上明神社で、次いで東京都の、川崎市多摩区登戸のや長念寺、東京都世田谷区の、同瀬田の、大田区西六郷の、同東六郷のなどとなっている。 こうした漂着神以外にも、東京都府中市にあるの三の宮の御輿は、かつては是政で多摩川の水中に沈められる、いわゆる水中渡御が行われていた。 この他、矢口の渡しに伝わるの御霊伝説も広く知られている。 には宿河原村にあった松の枯れ木「綱下げ松」に霊験があるとの噂が立ち、からの観光客が大挙して押し寄せ、騒ぎは翌年まで続いた。 風紀紊乱を問題視したが徹底的にこれを取り締まり、には「綱下げ松」も伐採されてこの騒ぎは収束した。 利水 [ ] にの下で転封となったは、多摩川下流のでの水稲生産を拡大するため、に用水・に命じて両岸のの建設に着手。 に(右岸)と(左岸)が完成した。 その他にも、頃より取水を始めたと推定されている(右岸)や、より取水を始めた(左岸)などの用水路が相次いで整備され、それまで水利が芳しくなかった多摩川下流の低地・台地に豊富なをもたらし、の生産量が増大、の生活を支えた。 鮎漁 [ ] 多摩川は元々水質が良く、清流を好むが多く棲んでおり、江戸時代、多摩川では鮎漁が盛んであった。 にも鮎漁の様子が描かれている。 多摩川のあゆは将軍家にも献上された。 鵜を用いたでの鮎漁も行われ、鵜飼の鮎漁の写真も残っている。 初期まで鮎漁は盛んに行われており 、年配の地元住民が記憶しているように、水揚げされた鮎は食用にされていた。 だが昭和期に多摩川周辺の人口が増え水質が悪化すると、鮎漁は一旦途絶えた。 その後、水質改善のための努力が重ねられ水質が良くなり、鮎漁が復活した。 最近、地元の漁師が多摩川のことや鮎漁のことを人々に知ってもらおうとの想いで鮎漁を復活させ、多摩川の鮎を出荷している。 日本橋の老舗百貨店、の食品売り場にも「江戸前のあゆ」として並んでいる。 すなわち東京湾から遡上する鮎を増やすため、多摩川上流に位置する東京都昭島市・日野市・あきる野市は2018年3月12日、「江戸前鮎を復活させる地域協議会」を発足させた。 砂利採掘 [ ] 多摩川の川採掘について触れた最も古い文献史料は江戸時代中期、3年()の日付がある、村の平川家文書である。 これによると、下丸子村と上平間村に幕府から300坪分の砂利を納めるよう指示が下されたことがわかる。 続いて宝暦5年にはなる人物が多摩川の砂利を採掘する許可をに申請し、代官所が上平間村から諏訪河原村までの13ヶ村の役人を呼び出して、この採掘に問題が無いかどうか検討させたとの記事もある。 宝暦8年には幕府は多摩川砂利を御運上場としている。 これは民間の業者を請負人として幕府向けの砂利採掘をさせるもので、江戸松嶋町与兵衛、川崎町源右衛門といった名前が請負人として記録されている。 こうした体制は文化2年まで続き、文化3年()より、八幡塚、下平間、小杉、上丸子、上平間、小向、下沼部、下丸子、矢口、古市場、高畑の9ヶ村が共同で幕府御用の砂利採掘を請け負うこととなった。 こうした体制は幕末まで続いた。 多摩川砂利の需要は武家が8割、町方が2割と見られており、になって武家に倹約令が敷かれると、多摩川の砂利採掘業は経営が立ちゆかなくなった。 以降、建築物にが使われるようになると、多摩川はその原材料の一つである砂利の産地として注目された。 またの用や外航船のバラストとしても多摩川の砂利は多用された。 砂利採掘が可能な場所は全国にあったが、需要が集中するに供給する上で、砂利の輸送コストが低く抑えられる多摩川に砂利採掘は集中していった。 後の建設ラッシュで砂利需要はピークに達し、が終わる頃には東海道線鉄橋より下流の砂利は採掘し尽くされていた。 採掘場所は必然的に上流へのぼり、宮内、下野毛、北見方、諏訪河原、瀬田、二子はもとより、宇奈根、宿河原、登戸まで拡大した。 1922年(11年)の多摩川砂利の採掘量は115万トンで、翌年の全国の採掘量320万トンの3分の1を超えている。 この数字は日本最大の砂利生産量で、1935年(大正14年)度には145万トンに増加した。 過剰な砂利採掘により河床が低くなり、の取水が出来なくなったり、によっては塩分を多く含む河口の水()が遡行し、農業用水や原水に流入したりするといった被害が続出するに発展する。 また、河床低下により取水が困難となった用水路への対策として上河原や宿河原などに取水が築かれ、取水地があった調布(現在の)には塩分の逆流を防ぐための堰が築かれた。 堰により水道・農業用水の取水は容易になったが、今度は多摩川名産の鮎の遡上を阻害することとなり、都市化が進む流域からの生活排水の垂れ流しによると相まって、多摩川でのとは壊滅的な被害を受けることとなった。 さらに、宿河原堰の構造上の問題により時にを破る被害(狛江水害)も発生するなど、新たな問題が顕在化する。 そこでは2月に「多摩川砂利採取取締法」による取り締まりを実施し、にはより下流での砂利採掘が全面禁止されるに至った。 こうした環境保護のための規制が敷かれつつも、大きな利益を生む多摩川の砂利採掘業は止まるところを知らず、大小の採掘業者が乱立し、砂利採掘禁止区域内での盗掘が横行していた。 採掘された砂利は当初は主にで搬送していたものの、大型建設が相次ぐ大需要地・東京に運ぶための鉄軌道敷設が各地で計画され、、、、、などが競って砂利輸送を行った。 このうち南武鉄道などは公然と違法採取を行っていたことが記録に残っている。 後も東京都のやの基地建設、そしてによる首都圏各地の工事需要で多摩川の砂利採掘は続き、堤防の内外には違法に採取された砂利の採掘跡がのように点在していた。 これらの採掘穴には雨が降ると水が溜まり、子供が溺れるなどの被害も出た。 最終的に内の万年橋より下流での砂利が全面採掘禁止となり、翌年には多摩川全域で砂利採掘が禁止された。 砂利採掘以外の環境汚染 [ ] 沿川の急激な都市化に伴う生活排水の流入、および支流の水源となっているやでの宅地開発に伴う破壊による水源枯渇が相まって、多摩川の水は著しく汚染された。 水道原水として利用不能になる、農業用水路が埋められる、衛生状態が悪化するという事態に陥ったが、1980年代より整備が始まった沿川でのが普及するに伴い、水質汚染は徐々に緩和された。 また宿河原堰などへの設置といった工夫と相まって、多摩川には再び鮎が遡上するようになっており、やといった鳥類の採餌を支えるまでに回復してきている(を参照)。 現在では河川敷に親水施設などが設けられ、近隣住民の憩いの場として利用されるている。 急激な水質汚染とその急回復を経験した多摩川は、環境保全に向けた更なる努力の必要性を象徴する場として、多くの市民活動の舞台ともなっている。 治水 [ ] 多摩川は勾配が急な川で、先史時代から上記のような顕著な崖線を形成するほどの「あばれ川」である。 先史時代の古墳や住居跡は氾濫原を避けた高台にあったが(例外としてには低地に古墳が築かれている)、集落は徐々に豊富な水を求めて川沿いに広がるとともに、常にに悩まされるようになった。 多摩川は土砂の流下と堆積が大きいため、氾濫のたびに流路が変わった。 多摩川には古来からとを結ぶ街道がいくつも渡っていたが、当時中国より伝わった技術でも暴れ川である多摩川への架橋は難しく、舟を連ねたか、に頼った。 また氾濫によって流路が変わることで流域の村落を分断してしまうこともは度々であった。 現在のような流路に近くなったのはの大洪水によると言われている。 現在も多摩川の両岸に残る押立、布田、宇奈根、瀬田、野毛、等々力、丸子といった地名は、かつて一つの集落で、主に川の南側は洪水による荒れ野になっていたところである。 明治22年の施行時には、これらの集落は多摩川が分断したまま、またはに属して飛び地になり、その後に境界の変更が行われている。 これらの町名の南側で弧を描くや道路は、かつての多摩川の南岸である。 江戸期以降も大洪水は頻発した。 が終わり軍事的な懸念も少なくなり、最下流にはにの架橋としてが架けられたが、頻繁に流されて財を圧迫するために再建を断念。 からまでは他の街道同様にとなった。 深刻だったのは上水の取水堰口の埋没や破壊である。 江戸期は流域も人口が急激に増え、特に武蔵野台地上は利水が難しくから多くの用水(、、、など)が引かれていたが、洪水によって絶たれると耕作や飲水にも難儀した。 築堤は古くから行われていたようである。 多くはであり、大洪水ではあえなく決壊して土地はとなっていた。 からの慣例で流作地では諸役や税が賦課されなかったが、のによりこれまで無税であった流作地にも課税されるようになり、村が自力で水害を乗り切ることができなくなってしまった。 しかし大規模な治水が行われないまま後半から初頭にかけて大水害が頻発し、特にに関東一円を水浸しにしたでは、多摩川でも水害史上最悪と言われるほどの被害が出た。 しかし被害を大きくした要因は、富国強兵の政策の下での治水事業費の圧迫、さらに橋脚の建設、砂利の採掘、河川敷を利用した果樹栽培、川岸への工場の進出などの無秩序な工業化・都市化だったとされている。 以降は築堤の早期実現を求める河岸住民の声が高まることになる。 未明、選出の会議員、は、御幸、、、の各村民の計数百名とともに、に大挙して陳情に向かった。 との面会が許されたが、知事は大挙陳情の不穏当を説諭するのみで、築堤については「考究中」を繰り返した。 当時は大挙しての陳情は取り締まりの対象となっており、全員がチョンボリガサ 編笠 をつけていたため、この行動は「」として翌日の各新聞に大きく報道された。 着任早々の神奈川県知事は要望を受け入れ、工事は2月から、上平間天神台から上丸子までの一帯で開始されたが、対岸の側で反対運動が起こり、の中止命令を受けた。 有吉知事はこの命令を無視し工事を続行、との対立は妥協され、翌月10月に堤塘が完成した。 この強行工事で有吉知事は河川法違反と内務省の命令違反でけん責処分を受けたが、住民は知事の尽力を称えて新堤塘を「有吉堤」と名付けた。 現在のからバス通り沿いに、その名残が残されている。 から内務省直轄の本格的な多摩川下流改修工事が始まる。 途中、により堤防に亀裂や陥没が入るなどの被害が出たが、遅延を含め15年の歳月をかけてに竣工、河口からまでが改修された。 その後、までの間の改修が進められて大規模な氾濫は少なくなるが、には が発生して大きく報道されにもなった。 からは、さらなる対策として、河口から日野橋までの区間を(高規格堤防)とする整備事業が進められている。 その後もやなどによりが湛水し残された人が救助される光景をたびたび見ることがある。 には(台風19号)により増水し、堤防の決壊こそ起きなかったものの、流域の広範囲の地域が狛江水害以来45年ぶりとなる規模で浸水の被害を受けた。 要因としてに堤防未整備の区間が約540mあった ほか、想定を超える雨量による本流の水位上昇で支流からの排水ができなくなる「」が起きた可能性が指摘されている。 生態系 [ ] そのアユなどを狙って再びやって来るようになった (2004年6月) 多摩川では古くから内水面が営まれており、多摩川の鮎は名産としてにも上納されていた。 1843年には御留川に指定され、鮎は専用で、献上する鮎は沿岸の農民が負担した。 明治以降禁制が解かれると、二子や登戸が鮎の名所となった。 二子の船宿「亀屋」は1875年から12回にわたって方の御休憩所になり、やも時代に鮎漁に来た。 この鮎やなどは、中流域では掴み取りできるほど多かったとも伝えられている。 多摩川の水底には砂利が多くが生育し、また伏流水が湧き上がる場所や浅瀬が点在していて産卵適地も多い。 そのため左記の魚の生育に適した地形であると考えられている。 のほか、その魚類を捕食するも多く生活していたとの記録がある。 以前の文献には、多摩川流域にも、、、、などが訪れていたとも記録されている。 これらは河川のほかなどを生活基盤としているものだが、他の地域がそうであったのと同様、や水田の減少などにより生活を維持できなくなっていったものと考えられる。 また頃まではの営巣地が中流域に 44ヶ所あったとの記録がある ( p. 123)が、後に壊滅する。 ところが 頃から再び繁殖に挑戦する番いが現れ始めた。 コアジサシは水中に飛び込んで小魚類を捕らえる狩りの方法が特徴だが、その彼等を支えられるだけの魚類の生息ができるようになったことを示唆している。 中下流部では、かつてはや、なども多く訪れていたが、今ではめっきり見られなくなった(キジについては旧多摩村のがあった昭和20年代に多数生息していたとの記録があり、一時期は人工繁殖により増加したとの記録もあるが、近年の特に中下流部ではあまり観察されなくなった)。 反面、都市部の環境にも適応したや、、などが近年増加傾向にあり、も安定して観察される。 また冬鳥ではやなども増加傾向にある。 流域の宅地化に伴い、庭木や公園樹木などの都市環境にも適応した種は逞しく生活し、逆に警戒心の強く森で採食するキジや、水田などの沼地を好むオシドリなどが姿を消したものと考えられる。 また多摩川に限らずハクチョウ類の越冬地は北上傾向にあり、これにはなどの影響が指摘されている。 一方、かつてが見られることは希であったと言われるが ( p. 125)、にはに指定され(秋川合流点など一部は特別保護地区)、その保護施策が奏功し、以降カモ類は増加傾向にある。 過去の文献はいずれも、かつて多摩川は多様な生物が生息する豊かな環境であり、さらに初期からは周囲にが展開することにより形成された的環境に適合する生物が多く生息するようになり、その状況が昭和初期まで続いていたことを示唆している。 しかし、に入ると流域の都市化が急速に進み、流域人口が急激に増加するも、それに見合った汚水処理等の対策が為されないまま排水が垂れ流されたこと、また周辺地域の水田や森林が都市へと変貌したことなどを受け、生息できる生物が激減、一時はほぼ壊滅するという危機的状況にまで陥った。 汚染が著しく進んだ1980年代以降になると流域の都市部で整備が進められるようになり、左岸東京都下流部では、中流部では、右岸川崎市北部では、源流部の・ではに、ほぼ整備が完了した。 これを受けて排水の流入が抑制され、水質が回復することによっ鮎などの魚類が戻りつつあり、また鳥獣保護区指定や水源林保全などの施策により鳥類の生息も回復しつつある。 魚類・水棲小動物 [ ] 一部地域ではが営まれており、、、、、、、などが水揚げされているため、これらの魚種が相応に生息しているものと考えられている。 また近年になるとにが設けられるといった施策がされ、それに伴って激減していた鮎の遡上数が急増した。 この他、などの魚類、や、などの、他にも様々な小動物の生息が観察される。 最近は観賞魚の放流などで外来種の種類・数共に増加傾向にある。 こうした状況を、南米になぞらえて「タマゾン川」と呼ぶこともある。 川崎河川と環境保全NPOや環境教育団体であるいきものふれあい教室により、多摩区菅にある稲田公園さかなの家に「」が設置されており、川崎河川漁業協同組合総代のが管理している。 こうした取り組みは、外来魚などの放流防止に役立っていたが、『さかなの家』『おさかなポスト』は2019年3月末を以て、川崎市と川崎河川漁業協同組合が存続を拒否したため廃止予定。 『おさかなポスト』の活動(魚やカメの受け入れや里親捜し)は、おさかなポストの会飼育管理事務所で存続する。 、、、、、、、、、、、、、、 等 上流域 、、、、、、、、、 等 中流域 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、()、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 等 下流域 、、、、、、、、、、、、、、、、、、 等 目撃例が報告された外来種(上記以外) 、 等 前者は繁殖した個体ではなく、ある程度まで成長してから飼育放棄によりされたものであると考えられる。 後者は前者に比べて繁殖の可能性が高いものの、温泉や多量の工業廃水が流れ込みが保たれる限られた場所以外では、越冬できないとされる。 国内間移入種 外来魚だけでなく、元来は多摩川水系に生息しない日本産淡水魚を観賞魚として楽しんだ後に多摩川に放流する者もいると推測され、全国の日本産在来魚が多摩川で見られる。 オヤニラミやムギツク、アカザなどはその代表と思われる。 鳥類 [ ] 、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、などが観察される。 、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、 、などが観察される。 、、、、、、、、などが観察される。 この他、のなどが観察されることもある。 河川敷 [ ] のうち運動場などに利用されていない草むらには類が生い茂り、などのやそれを捕食する鳥類が生息する。 部分では、強度維持のために定期的にが行われている。 そのため日当たりのよい荒野に生育する各種雑草類や、などが観察される。 河口 [ ] (、殿町) 河口付近は、左岸()にはが建造され護岸化されているが、右岸()やには泥や砂が堆積し、河口から数 にわたり、内では比較的広いや原が形成されている。 かつての多摩川河口付近は遠浅になっていたため、よりのためのが始まっていたが、期以降にはさらに工業団地造成のためのが進められ、海岸線の姿は大きく変貌した。 この河口付近では、かつてはのや捲きが盛んに行われていた。 高級海苔の代名詞として呼ばれた「」は、かつて養殖されていた付近の市街地拡張に伴い養殖漁業が周辺地域に移っており、初頭には品川・大森での養殖が盛んであったが、河口付近ではに大師河原(現在の川崎市川崎区)で養殖が始まり、産した海苔は「大師のり」と呼ばれ高級浅草海苔として取引されたという。 また、河口付近の遠浅の海では、、(アオヤギ)が大量に獲れ、羽田・大森では、、、、、などが水揚げされる、豊かな漁場であった。 ところがになると、で寄りから進められたが多摩川河口付近まで及ぶとともに、工場廃液による海の汚染が進んだ。 昭和30年代になると獲れた魚が油臭くて買い手がつかなかったという。 またになると多摩川河口付近でも埋立計画が立ち上がったことを受け、河口付近の沿岸漁業はにがを手放すことで終焉となった。 しかし、今なお多摩川河口には僅かながらも貴重な干潟環境が残っている。 こうした環境は、今や東京湾内では当地のほかに、、(河口付近)、など限られた地域に残るのみで、東京湾西岸では唯一の天然干潟でもある。 このために入ってから詳細な調査が進められており、「」に選定される など希少かつ貴重な環境として認識されている。 河口付近の岸辺は域になっており、泥質および砂質の干潟が共存している。 またの影響を受けるため好気的な環境が維持され、こうした環境はによる水質浄化(・低下)作用が高いことに加え、現在でもたとえば下記のようなが確認されている(詳しくは文献 を参照)など、僅かな空間にもかかわらず多様なが維持されている。 泥質 、、類、、、、、、、、、、、 砂質 、、 ヨシ原 、、 石表面や岸壁など 、、、類(、、、、)、、 水中 、、、、、類 この他、近年になりの自生が確認された。 また河底ではが生息しているものと推察される など、東京湾では希少になった干潟的環境における生態系の豊かさが再確認されている。 は、冬に、、、、、などが群れで訪れて越冬しているとともに、夏にはの繁殖地にもなっている。 また周辺地域でも見られるや、類などの姿は周年観察される。 一方、かつてはが多く訪れていたとの記録があるが()、現在 [ ]は・の短期間に・類が旅鳥として稀に立ち寄る程度になってしまっている。 大正期までの河口付近 [ ] かつてはの他の地域と同様、多摩川河口付近には遠浅の干潟様環境が広がっており、旅鳥またはとしてシギ・チドリ類が多数訪れていた。 者のは、1909 - 18年にかけて、付近の黒田家鴨場(現在のターミナルビル付近)、末廣島(現在の浮島町付近)、羽田町麹谷(現在の東糀谷付近)にて観察を行い記録している。 文献によれば、下記で普通種として示した種は数百羽の群れで訪れることも少なくなかったことや、やなどは冬鳥として多数飛来していたこと、当時はが 7月など夏場を除く長期間にわたり見られたなど、冬鳥の越冬地としても賑わっていた様子がうかがえる。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 東急財団. 2019年9月6日閲覧。 www. city. tama. 2019年9月6日閲覧。 東急財団. 2019年9月6日閲覧。 東急財団. 2019年9月6日閲覧。 福生市. 東京都福生市公式ホームページ. 2019年9月6日閲覧。 東急財団. 2019年9月6日閲覧。 東急財団. 2019年9月6日閲覧。 (日本語) - 2011年9月26日, at the. (日本語)• (日本語) - 水文水質データベース• 2017年11月8日閲覧。 水辺を歩こう多摩川 p. 172「多摩川の渡し跡」。 東京都水道局. 2020年7月9日閲覧。 片岡義男・野田知佑・佐藤秀明『カヌーで来た男』文藝春秋〈文春文庫〉、pp168 - 171。 三輪修三『多摩川:境界の風景』、、8-20ページ• 三輪、前掲書、102 - 106ページ• 「江戸前アユ復活へ地域協議会が発足 昭島など」『』朝刊2018年3月14日(地域面)• 三輪、前掲書159ページ• 三輪、前掲書 162-163ページ• , p. , p. 112• , p. 113• , pp. 113-115• 116• 119• 読売新聞 2019年10月15日. 2019年10月19日閲覧。 水辺を歩こう多摩川、京浜工事事務所(現・京浜河川事務所)、2002年。 多摩川の野鳥、、、。 水辺を歩こう多摩川 p. 224-。 水辺を歩こう多摩川 p. 164、関東農政局「平成10年 内水面漁業統計調査」より。 山崎充哲『タマゾン川 多摩川でいのちを考える』(旬報社、2012年)など。 『毎日新聞』2016年3月1日(2018年3月14日閲覧)• を参照• 多摩川の野鳥 p. 200-「多摩川産鳥類目録 昭和14年から昭和58年まで」。 多摩川河口干潟の生きもの、川崎市環境局公害部環境対策課、12月。 海と人生-川崎で海苔が採れた頃、、。 (関東地方整備局港湾空港部横浜港湾空港技術調査事務所)• (インターネット自然研究所)• 参考文献 [ ]• 鈴木穆『高津物語 上巻』タウンニュース社、2004年1月。 川崎地域史研究会『かわさき民衆の歩み 明治・大正・昭和』多摩川新聞社、1995年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 オープンストリートマップに があります。 - に多摩川に現れて話題になった。 - Jリーグのクラブ、とが対戦する。 - 多摩川にちなんで命名されたの。 で戦没した。 (旧・読売巨人軍多摩川グラウンド )• (旧・日本ハム球団多摩川グラウンド )• 多摩川グラウンド(、現存せず)• - 多摩川と並ぶ東京都の水源。 - 多摩川と並ぶ東京都の水源。 外部リンク [ ]• - 京浜河川事務所•

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東京都の多摩川氾濫地域と堤防決壊と越水箇所!台風19号ハギビス

多摩川水位 二子玉川

多摩川決壊の碑。 「多摩川水害」と呼ばれる首都圏大水害の記念碑です 昭和49年(1974年)9月、台風16号の洪水により多摩川が氾濫。 左岸の堤防が決壊して、東京都狛江市の民家19棟が流失するという大水害が発生しました。 濁流に住宅が次々と呑み込まれていく。 そんなシーンがテレビで全国放送され、日本全体に大きな衝撃を与えました。 首都圏の住宅地で、しかも大河川・多摩川の「本堤防」が決壊するという、信じられないような光景です・・・ 多摩川水害(あるいは狛江水害)とも呼ばれるこの水害は、のちの裁判で「人災」と認定され、国の管理責任が厳しく糾弾されました。 「 多摩川決壊の碑」は、この多摩川水害の教訓を後世に残すために、災害現場の左岸河川敷に建立されたものです。 写真に写る 多摩川決壊の碑の後方には、水害の原因となった「」の堰堤が、葉を落とした潅木越しに見えています。 「あばれ川」の異名を持つ多摩川の、悲しい歴史のひとコマです。 多摩川決壊の碑 多摩川水害(狛江水害)とは 都市河川で発生した堤防決壊水害 多摩川は、かつては「あばれ川」として知られ水害を繰り返していましたが、それは遠い昔のこと。 治水対策が進んだ昨今では、多摩川は「穏やかで安全な川」。 多摩川がまさか氾濫するとは夢にも思っていなかった人がほとんどだったと思います。 そんな多摩川が突如として牙をむいた・・・そんな悪夢のような出来事でした。 昭和49年9月(1974年)、台風16号が関東地方に襲来。 大雨による洪水で多摩川が氾濫。 二ヶ領宿河原堰わきの左岸堤防が決壊して、東京都狛江市の民家19棟が流出しました。 これが多摩川水害(狛江水害)です。 堤防が決壊して濁流に呑み込まれていく住宅 このショッキングな家屋流出シーンは、後のテレビドラマ「岸辺のアルバム」でも実写映像が使用され、視聴者に改めて水害の怖さ、もどかしさを実感させました。 (写真は毎日新聞による) 堤防決壊の全貌 堤防決壊の全景写真です。 左岸側(写真では右側)が弯曲して、大きくえぐり取られているのがわかります。 ただ、本堤防が決壊したのに市街地は浸水していません。 洪水は堤防よりも低かったのです。 ここに、 この水害の特殊性があります。 (写真は狛江市HPによる。 「悪夢のような多摩川堤防決壊」) 本堤防決壊の原因 越流ではなく「洗掘」 堤防の決壊は、二ヶ領宿河原堰の左岸取付部から始まりました。 取付部は本堤防よりもはるかに低い河川敷にあるのですが、洪水が河川敷まで上がった段階で、取付部上流側の小堤防が崩壊しました。 この小堤防は流水を堰の方向に導流するためのものですが、厚さも15cm程度しかない植石コンクリート造りで強度も小さいものでした。 小堤防が崩壊すると、 左岸側への迂回流が生じて堰の左岸取付部を洗掘しました。 それによってさらに大きな流速の迂回流を誘発する結果となり、河川敷が洗掘され、それが進んで本堤防までも侵食するようになったのです。 そしてあの忌まわしい大水害となりました。 「あの教訓を忘れないために:多摩川決壊の碑」) 堰の固定部を爆破して河道を確保(緊急措置) 多摩川水害の原因は明らかです。 二ヶ領宿河原堰が洪水の流れを阻害したこと。 せき止められた洪水が左岸河川敷の小堤防を破壊し、これによって大きな迂回流が生じて本堤防に流れがぶつかり堤防を洗掘したことです。 陸上自衛隊と建設省(現・国土交通省)によって堰の爆破が行われました。 (写真は毎日新聞による) この緊急対策が功を奏してようやく迂回流が止まり、被害の拡大を何とか食い止めることができました。 原因となった宿河原堰を爆破・解体するという荒療治でしたが、迂回流さえなくなれば「ごく普通の洪水」です。 堤防を越流するほどの高い水位では勿論ありません。 多摩川水害訴訟 住民勝訴で決着 堤防復旧後、国は流された宅地約3000平方メートルは元に戻し、堰の爆破による二次災害2300万円余りについて補償を行ないました。 ただ、流出家屋等の弁償をしなかったために、昭和51年(1976年)、家を流された住民をはじめとする30世帯33人の原告が、国を相手取って国家賠償を求めて提訴しました。 これが約16年に及ぶ「多摩川水害訴訟」の始まりです。 裁判の争点は、• 1 河川管理者が災害当時、事前に災害発生の危険を予測することが可能であったか?• 2 本件災害を回避するために事前に適切な防災措置を講じることが可能であったか? ということでした。 つまり、国の管理に「瑕疵があったのかどうか」、堤防決壊は「天災なのか人災なのか」が問われた難しい裁判でした。 裁判の結果、一審は原告の住民が勝訴。 二審の控訴審では国が勝訴しました。 これを不服として原告側が上告した上告審では二審の判決が破棄差戻しとなり、平成4年(1992年)、差戻控訴審で住民が勝訴してようやく判決が確定しました。 多摩川水害は、国の瑕疵責任を認めた「人災」という結論が示されたことになります。 多摩川決壊の碑 二度と災害を起こさないための決意 この多摩川水害の教訓を後世に残すために、決壊した宿河原堰の跡地(狛江市猪方四丁目)に「 多摩川決壊の碑」が建立されました。 現在の宿河原堰の40mほど上流側の河川敷になります。 清く澄んだ多摩川と青空をモチーフにしているのでしょうか。 青い三角錐(ピラミッド型)の記念碑には金色に輝く銘板が埋め込まれています。 そこには堤防決壊時の写真とともに「碑文」がしるされていました。 碑文(全文) 碑文には、水害を防げなかった河川管理者の無念さ、悔しさ、二度と災害を起こさないという決意がにじみ出ています。 ここでは、敢えて全文を掲載しておきます。 皆様も一度、じっくりと読んでみてください。 碑文 昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心とした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。 この出水により、1日昼ごろ、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。 迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の民家19棟を流失させる被害をもたらしました。 この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、多くの国民の注目を集めました。 建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。 一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。 平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。 ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです。 平成11年3月27日 建設省京浜工事事務所 狛江市 新しい宿河原堰 裁判が終了した翌年の平成5年 1993年 年、建設省は「多摩川河道検討委員会」を設置し、二ヶ領宿河原堰の改築について関係機関や地元住民とともに堰の構造などについて検討をくり返しました。 その結果、洪水時引上式スライドゲート1門と洪水時起伏式の可動堰5門を備えた「全横断の可動堰」にすることと、魚道も1箇所から3箇所へ増設することなどが決定されました。 平成11年(1999年)3月、従来の堰より40m下流に新しい堰が完成しました。 私たちが現在見ている「」です。

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多摩川のライブカメラや水位(リアルタイム)は?二子玉川・日野橋・田園調布は?

多摩川水位 二子玉川

今回は、二子玉川駅から徒歩でいける多摩川河川敷の公園『兵庫島公園』を特集!! 兵庫島公園は、多摩川で遊ぶのは子供にとって危ないと思う方でも、 水遊びができる兵庫池周辺の水遊び場があります。 遊具のある公園で遊びたい子供には『』をオススメしますが、多摩川沿いで遊びたかったり、水遊びをしたい子供には『兵庫島公園』をオススメします。 スポンサードリンク 芝生 多摩川の河川敷は、ほとんど芝生や草が生えているエリアがほとんどです。 ランチシートを広げて、ゆっくり寝転んでみては。 兵庫池の紹介 河川敷の芝生の一画に、兵庫池と小川があります。 ここは、公園として管理されている水遊び場で、小川は浅く、小さな子供でも遊べるような親水公園となっています。 たまたま見に行った日は、東京都の職員の人が兵庫池に流れている小川の底を綺麗に清掃しているタイミングで、手入れされていることがわかりました。 こんな感じの小川です。 青のホースは清掃用のホースなので、普段はありません。 このような小川が兵庫池まで続いています。 兵庫池自体は、広くて深そうなので、流れてくる小川で遊ぶことをオススメします。 野川 兵庫島を挟んでいる川は、多摩川と野川がありますが、野川は比較的浅いので、夏場は川に入って遊んでいる子供たちも結構います。 うちの子供も入って遊びましたが、ひざ下くらいで特に危ない思いはしませんでした。 多摩川 反対側には、多摩川が流れています。 以前死亡事故も起こったとの看板が立ててありました。 多摩川では水に入って遊ばずに、眺めたり、石を多摩川に投げて遊んだりするのをオススメします。 トイレ トイレは、あまり綺麗ではないので、兵庫島公園につく前に、トイレに行っておくことをオススメします。 勝手に評価 兵庫島公園は、近場の公園よりも、もっとひろい場所で水遊びをしたい子供には、オススメの公園です。 遊具は何もないですが、兵庫池周辺の水遊びは楽しかったですし、更には、野川に入っての川遊びも、子供にとっては刺激になったようです。 芝生もたくさん広がっていて、多摩川が東京のオアシスであると感じました。

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