鈴木涼美 おすすめ。 よくも悪くも厄介な「母親」という存在 かつて“レディ・バード”だった私たちへ【鈴木涼美】|ウートピ

何を選択しても批判され、満たされない――元AV女優の社会学者・鈴木涼美が語る、現代女性の生きづらさのワケ|ウートピ

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「涼美ちゃんの書いてるものって面白くて好きなんだけど、でも彼女ならもっともっとラディカルになれると思うんだよね!」 いまをときめく文章家、鈴木涼美のファンだという三十代の知人は、フェミニストを名乗るわりには男からの承認を欲しているタイプで、とはいえそれを肯定するにはジェンダーとかを学びすぎていて、しかし東大大学院卒の鈴木涼美に難癖をつけるほどの学識もないので、とりあえず、「涼美ちゃん」とちゃん付けした上で、彼女を保守的だと批判できるメタな立ち位置を確保しようとしていた。 例えば、男女の性幻想の問題に関しても、炎上すれすれの理路を展開する。 「米国のポルノでは女優がアホみたいに『オーイエス』を繰り返すのに対し、日本のAVでは『いや』『だめ』が発せられる回数がアホみたいに多い」とし、日本男児の性幻想を「慎ましく閉じられた扉を開けるのが好き」だと皮肉り、それを「イヤン文化」と命名する。 その上で、 Metoo運動を日本の文脈で考えると、「イエスのイヤンとノーのイヤンを瞬時に嗅ぎ分ける能力がないと、イヤと言ったと主張する被害者と、イヤン脱がさないでを信仰する加害者との主張が食い違い続ける」と喝破する。 鈴木は、ノーのイヤンを言った女性に非がないことは明らかだとするが、イエスのイヤンだと読み違えた男性を一方的に糾弾することもしない。 女性も男の性幻想に加担しているわけだし、イヤン文化が女性の性幻想に関わらないとはいえないからだろう。 しかし、彼女が試みているのは、「私の正義」によって事象を差別認定し、「私の溜飲」を下げることではない。 そうした態度は、よしんば政治的に相手から言葉を奪うことはできても、問題の本質的な解決にはならないからだ。 鈴木涼美の真骨頂は、事象の背景を繊細に分析することで、齟齬が生じている構造をつまびらかにし、そこに問題解決への糸口を見出す、というもの。 「私の正義」に淫することを禁欲し、冷徹に現実を見据える態度は、むしろ学問的にはオーソドックスで、そこに踏み止まる胆力こそをラディカル(根源的)としてもいい。 そして、そうした政治的な議論は別にしても、本書は男女の機微に関する名言が満載だ! 「女が稼ぐモデルや概念は許容できても、ヒモ体質の男を愛せるか、稼ぐ力のない男に魅力を感じ続けられるか、というとまた別である」 「ポリティカリー・インコレクトなところをベッドの上でうやむやにするのが恋愛なわけです」 といった至言にたどり着くエピソードを堪能するだけでも、1400円を払う価値がある一冊である。 最初に私が文体を真似たように、鈴木の文章は螺旋階段を降りるように様々な視点を繰り込みながら議論が進む。 矛盾を炙り出し、自身の欲望を見据えつつ、思索を積み上げていく。 こういう書きっぷりに心当たりがある。 ウーマンリブの嚆矢、田中美津の『いのちの女たちへ』の文体である。 草創期のリブもまた、自らのなかにある男に媚びたい女と、媚びたくない女の矛盾を抱え込んでいく運動であった。 彼女たちはその試みを「とり乱し」と呼び、肯定したのだ。 欲望とジャスティスの間を振れながら歩んでいく鈴木涼美が、その「とり乱し」の正統な後継者に見えるのは、私だけでもないだろう。

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よくも悪くも厄介な「母親」という存在 かつて“レディ・バード”だった私たちへ【鈴木涼美】|ウートピ

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ボードレールに影響を受けた少年を描く『惡の華』 ブンガクというと何よりもアンチヒューマンなのだと、酒を浴びて女を殴って少女の片腕を持ち帰り、異常なまでの浪費の末に破滅してこそこれブンガクなのだという思い込みの時代を生きていなくとも、破滅的な生き方への傾倒というのは確かにあって、特に文化芸術の分野ではかつてはそういったものこそホンモノみたいな印象は強かったし、70年代の香り冷めきらぬ時代に生まれた私も含めて今でも半ばそんな価値観を拭いきれない者は結構多い。 多くの文学少女は太宰やサガンや安吾やボードレールやドグラ・マグラやねこぢるを読んで思春期を過ごしているし、ヒルズで去年やってたバスキア展は信じられないくらい混んでいたし、カート・コバーンやジミヘンやジム・モリソンや尾崎やシド・ヴィシャスや(以下略)など夭折した音楽家も伝説化しやすい。 甲子園など若さを捧げるに足る目標があるわけでもなく、早くから頻繁にセックスにありつくモテもなく、運動や流行やオカネなどとそんなに相性がいいわけでもない多くの若者が一度は、こういった刹那的で退廃的な匂いに憧れ、自分も実はそっち側なんじゃないかという淡い勘違いを重ね、若さ特有の肥大した自意識にまみれて世や親や学校を憂いて無礼な態度を取るものだし、その、伊集院光が中学二年生という病と名付けたような事態は、パラパライベントへ行くときにヤプーとかバタイユとかをポケットに入れてるワタシってフクザツ、なんて思いながら赤面の若年期を過ごした私は大いに身に覚えがある。 ちなみに鈴木涼美というペンネームは本名を文字って鈴木いづみをオマージュしたものなので、自分の凡庸さを実感せざるを得ない年齢になっても、完全に治癒したわけではない。 さてしかし残念なことに27歳で死ぬわけにもいかなかった凡人の私は、凡人なりに逞しく図太く生きていかねばいけないので、昨年「漫画の『惡の華』が映画になったんだよ」と聞いた時、ボードレールの『悪の華』を愛読する少年を描いた押見修造の漫画『惡の華』の方ではなく、完全に「特命係長」シリーズの柳沢きみお作『悪の花』の方だと勘違いした。 ちなみに柳沢漫画の方は特にボードレールは出てこないが、大手芸能プロの敏腕社員だった男が大金と引き換えにタレントに薬物をばら撒いていたミュージシャンの罪を被せられて実刑を受け、1年半の刑期で出所してくるところから始まる。 2億円で仕事も恋人も人生の希望もふいにしてしまって生きる気も失っていたが、たまたま道で拾った何の才能も個性もない女をプロデュースして売り出しているうちに再び芸能魂に目覚め、荒々しく毒々しい芸能界で返り咲こうとするが、かつての恋人を奪った元上司やヤクザなどが立ちはだかる。 エイベックス松浦会長の文春記事 ちょこちょこ何かとリンクするようなキーワードがあるが、そういえば先日「クリエイティブに専念」するためCEO退任が発表されたエイベックス創業者の音楽プロデューサーは、今年センテンススプリング・オンラインで大麻使用疑惑などが報じられた。 元社員の「A子さん」の告発という形で書かれた記事の信憑性を検証する術を私たちは持たないが、幾度も所属タレントの薬物トラブルや自身の大麻疑惑が報道されてきただけに、彼が元社員とハワイで今年最初の悪の華を二人寄り添って眺めていても、「ありそうな話だけどそれほど意外性がない」と感じた人が多いのか、それほど話題にはなっていない。 日本では違法薬物である大麻に誘われたという「A子さん」も怖かったろうし愚かな部分もあったろうが、少なくともどこまでもカリスマ社長の意志の伝達役でしかない、無頼を真似ても様にならない「天才」な編集者などに、凡庸そのものな口説き文句でパワハラを受けるよりは、目眩く時間のように聞こえる。 ただ、記事で私が面白かったのは、A子さんが語る元CEOの「クスリ周期」の話で、彼女曰く毎年9月の音楽イベント「ウルトラ」からハメを外し、誕生日がある10月はパーティーナイトが続き、年末年始の恒例のハワイまで日常的に違法薬物を摂取する日々が続く。 しかし年が明けるとその悪習を断ち、6月の株主総会前はとても神経質で、そして夏が過ぎ風あざみ、またウルトラシーズンになるのだという。 これが本当だとしたら、さすが27歳で繊細な音を残して死んでいったミュージシャンたちとは違い、レコード店アルバイトから巨大グループ企業を興してJ-POPの頂点に座り、ミリオンヒットを飛ばしまくった人だけに、破滅的な遊び方も極めてネオリベっぽいと言うか、悪の華を用法用量を守って食べ続け、しかしマクロビもやってるみたいな、よく言えばバランスをとったように見える、悪く言えば繊細さと一般常識の両方が欠けた、俗世と相性の良いズル賢さに溢れている。 話題の『M 愛すべき人がいて』に思うこと 押見修造の方の『惡の華』には、平凡で退屈な町から出ることができずに、しかし古本屋に通って日夜ボードレールや萩原朔太郎を読んで、この町の凡人たちと俺は違うと思っているような凡庸な中学二年生の少年が描かれる。 くだらない会話とパチンコ屋しかない町は山に囲まれていて、山を越えて「向こう側」に行こうという画策が、序盤のハイライトである。 そしてネオリベ系の不良おじさんはいともたやすく向こう側と退屈な俗世を行き来し、どちらも飼い慣らして見える存在ではある。 ただし、そこに通行切符として介在するのが日本では違法な大麻だとしたら、何のオリジナリティもなく退屈なのだけど。 『惡の華』では中学時代の少年の周囲に二人の少女が登場する。 片方は、友達も多く、美人でクラスのマドンナ的存在だった女で、もう一人は変人として孤立しており、少年の弱みを握って露悪的な命令を下してくる女。 当初は変人を怖がって避けたがり、美人のマドンナをミューズとして崇めていた少年だったが、ひょんなことから彼女と近づく運びとなると、その幸運をふいにして、世の中を「クソムシ」と蔑む変人の方に傾く。 美人マドンナを脳内で都合よくミューズにしていた頃は、彼女の体操服を触るだけで興奮していたのだが、彼女は彼の妄想の中に収まるような都合の良い存在ではなく、生身の性的な女で、ずっと強く、またどんどん変化していく。 彼女が変化していけばいくほど少年はかつての憧れのミューズである彼女から逃げて、変人女との悪の道を辿って「向こう側」を目指そうとする。 マックス松浦というと私にとっては90年代J-POP全盛期の大物プロデューサーで私の愛するTKの保釈金を払ってくれたお金持ちというイメージで、去年まではおそらく同じように裏方の大物というイメージ以上のものを持っていなかった人は多いのではないか。 まして一応裏方のプロデュース業をする彼の顔など、そんなに気にしている人はいなかった。 しかし、昨年、平成の歌姫あゆと彼との関係を元に「事実を元にしたフィクション」というあゆの直筆メッセージ付きで出版された「M 愛すべき人がいて」を読み、あゆと彼との関係を知り、デビュー初期の数多くのあゆの歌詞を聴きながら、まじまじと彼の顔を拝見した人も結構いるはず。 発売当初、Twitterなど見ると「大好きな曲、長瀬のことだと思ってたらサル顔の小さいおじさんでショック」的な勝手な妄想女子たちの書き込みが散見された。

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「専業主婦になりたい気持ちはわかる」。鈴木涼美さんと橘玲さんとの異色対談!|マガジンハウス書籍部

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2020. 14 新刊を出した文章家の鈴木涼美(すずみ)さん(撮影・斎藤大輔) 「ブルセラ」と呼ばれた制服を売る女子高生時代から慶應大学へ。 キャバクラ勤務、AV出演、東大大学院に進学、日経新聞勤務と異色の経歴を持つ作家・鈴木涼美(すずみ)さん。 今年に入って上梓した『』(東京ニュース通信社)はバラエティに富んだ内容で、ネットなどで話題になっています。 幅広いジャンルで活躍する鈴木さんに、この本に寄せる思いや、執筆のスタンス、そして、ひとりであることについて話を聞きました。 鈴木:雑誌での連載が始まったのは新聞社を辞めたばかりのころですが、既定のフォーマットに沿ってわかりやすく伝えるというセオリーがあり、文章の執筆において、文体にそれほど自由があったわけではありません。 その枠組みから自由になり、何かを書こうという時に文体から設定できることは大きかったですね。 水彩画、線画、油絵、ペン画といろんな絵があるように、文章も文体を見直すことによって表現の幅は伸び縮みします。 私の本を読んだことのある人から「あの本とこの本は同じ人が書いたなんて」と感想をいただきますが、それくらい、文体によって沸き起こるイメージというのは違いがあります。 わかりやすさを重視することよりも、文体も含めて表現としての面白さを重視しています。 夜のお姉さんか社会学からの視点なのか。 鈴木:今は短くてわかりやすいものが読まれやすい時代ですが、私自身は必ずしもわかりやすい本こそ良い本だとは考えていません。 何度読んでもすべて理解した気がしないような本でも好きなものはたくさんあります。 わからない部分と格闘する、そこを読み解くということも含めて読書体験だと思っています。 わからない部分が何を意味しているのかというところも味わい深いものです。 文章は、文体と内容が半々でひとつの表現になるんです。 例えば『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)であれば、女子同士の会話で知ったエピソードが多いので、主語と述語の間がぐらぐらするような、話し言葉の思考回路を表現したんですね。 その一方で今回の本に収録された『テレビブロス』の連載では自己紹介も兼ねて自分が好きだったギャル文化やJ-POPの良さが伝わるような文体にしました。 鈴木:意見や思いがある時でも、私自身が最も心がけているのはフェアであること。 冷静なフリをして男性を断罪するだけで彼らの痛みにまったく無頓着というのでは、その発言に価値を感じられません。 一方の傷をクローズアップするあまり、もう片方の傷に無頓着であったとしたら、それは女性の人権を踏みにじってきた男性のしてきたこととまったく変わらないのではないでしょうか。 もちろん、何かに味方したいとか、誰かを責めたいという思いは誰にでもあるし、結論はアンフェアなものになることはあります。 それでも、少なくともフェアな思考回路を見せることが社会に問題提起する者の責任だと考えます。 「自分が辛い」「自分が息苦しい」ということに捉われると反対からの視点を見失ってしまうので、複数の視点を持つこと、そのために自分と立場の違う人間の言葉を尊ぶことはとても重要だと思いますね。 その作業は結果的に、自分や自分の仲間のことを「斬る」ことにも繋がりかねません。 誰しも自分や自分の味方の非を認めることは抵抗を感じますが、その覚悟がないのであれば、発言は「愚痴」や「戯言」の域を出ない。 簡単に例えるなら、「男は若い女が好きだし趣味が悪いし腹立つけど、そんな男にうつつを抜かしている女は私たちでしょ」という視点が時には必要なんです。 鈴木:露出の多い格好をしていて男性に胸を触られたとき、その男性を非難すべきだとは思います。 「ファッションは男のためにしているのではない、自分のためだ」という論理も、ある側面では真実なのでしょうが、そもそも家で胸を出したりミニスカートを履いたりする人はとても少ない。 やはりファッションは他者があってのもので「自分がどう見られたいか」に深く関係しているし、触ってきた人がイケメンだったら怒らないということもあり得ます。 私たちも大概アンフェアなんです。 社会的な問題を提起する時、自分が擁護したいものにとって不利な情報にも目を向けるというのは、記者であろうが作家であろうが必ず持っているべき視点だと思います。 私はたびたび男性批判をしていますが、現代的な「フェミ」と呼ばれる人たちに距離を置かれがちなのは、ダメな女だってダメな男と同じ数だけいるという思想が根底にあるからでしょう。 例えばAV強要問題で「女も賢くなるべき」と言うと、まるで女性に非がある言い方だと批判されるので、そういうことを言えない雰囲気になっています。 でも、それを言ったところで彼女たちが傷ついたという事実が否定されるわけでも、女性の地位が落ちるわけでもないですよね。 そういう意味で私は「フェミ」と呼ばれる人たちよりも女性を強く信頼しているのだと思います。 それは私自身がともすれば「被害者」となる経験をしながら、「被害者」としての人生を生きていたくなかったからかもしれません。 最愛の母の死から3年以上が経つ。 鈴木:『AV女優の社会学』は東大の北田暁大先生のもとで書いた修士論文を直して本にしたものですが、その大元になったのは慶應の学部生時代、(社会学者の)小熊英二先生のゼミにいたときに書いた論文『現代日本のポルノ業界における女性の意思の成立過程』でした。 AV女優をやっていた時期の後半に差し掛かった頃に書いたものです。 大学2年からキャバクラ嬢とAV女優をやっていたのですが、そういう業界に長くいるとそれはそれで刺激がなくなってくるので、4年生になった頃、大学に戻ろうかなという気分になったんですね。 AVをテーマにした論文執筆を思いついたのは、なぜあの業界に勇んで入ったのか、なぜ楽しかったのかを振り返りたかったからなんです。 鈴木:論文では面接という経験を通して、AV女優が自分語りを獲得していく過程を書きました。 性の商品化の議論や売買春、性的搾取などの議論において、「自由意志」や「選択」と「強制性の有無」が問題になりますが、実際の「現場における意志」は、業界の構造や世間が手にする情報などが複雑に絡まりながら成立していくという思いがあって、その構造を明らかにしたかったんですね。 その際に性の商品化についての是非の判断についてはあえて留保しています。 従来の性の商品化の議論は、擁護派や否定派などの立場を取らずに現場の空気を切り取るフェアな視点が欠けているように思えたからです。 空中戦的に行われている議論はかならずしも現場の雰囲気を言い当てているとは限らず、語られている対象の多くが不在のまま、無意味な対立が起きていることもあります。 私がそういう視点を獲得していった過程こそが、今回の新刊でも繰り返し登場する、ひたすら「現場」の空気を吸っていた10代や20代の頃の経験でもあるわけです。 当時、ギャルやブルセラ女子高生、援助交際などは、大いに「語られる」対象でしたから。 鈴木:歴史や国際状況から、現代的な意味での「正しさ」を導き出すことは可能です。 その中では、若さや外面的美しさよりも内面的な実力などで女性を評価することが「正しい」。 ただ、人は正しいことを愛するとは限らないし、正しさに興奮するわけではないので、男性が、女性が若く美しく見える化粧やハイヒールから解放されたりすることを正しいと思ったとしても、彼らの下半身がその通りに行動するかどうかはまた別の問題です。 女性の側の「美しくありたいという欲望」も男性に支配された定義のものだと言い切ることは難しい。 最初がそうであったとしても、それを楽しいとか可愛いとか感じてきた私たちの生身の感覚もまたリアルなものです。 一時期までは理論を学んでいたからこそ理論に回収できないものに興味があります。 その態度は理論への絶望と取られるかもしれませんが、その絶望のなかで生きることが大切なのではないかと。 現実を生きる上で理論が私を救って来たかというと、そうとは限りません。 私は新刊に盛り込んだあらゆる街場のカルチャーや大衆文化にもずいぶん救われてきました。 少女漫画だったり、J-POPだったり、違う時代を生きた女性達の小説だったり。 そこに感じる魅力は必ずしも現代的な「正しさ」にそうわけではないけど、その矛盾から目を逸らさないということを常に考えています。 夜の世界に入ったのは素手で世の中に触れる感覚を味わいたかったからでしょうか。 鈴木:あまりそういった意識はなかったのですが、自分に見えている世界が絶対的なものではないという感覚を、自らの手で立証したいという気持ちがあったのかもしれません。 学者になるのが嫌だったわけではないし、アカデミックなアプローチへの敬意は常に持っています。 例えば私の父も含めて研究分野に身を置く友人達は一度も大学から出ないかわりに理論的な葛藤や毎日国会図書館に通うような気の遠くなる作業で何十年を費やしたりしていました。 私はそのような作業はしていませんし、出来ないと思いますが、尊敬はしています。 あるいは今でも厳しいジャーナリズムの世界で格闘している新聞社のかつての同僚たちの仕事も尊いものです。 私にできるのは、自由に世界にアクセスしながら、水を差すことぐらいなのではないでしょうか。 また、「ひとり」でいる人に本ができることについてお聞かせください。 鈴木:私は母親を失って会社員も辞め、結婚もしていませんからいろんな意味でひとりですが、人が「ひとり」ということを意識するのは家族といようが会社にいようが、自分のことを理解してもらえない孤独と向き合った時のような気がします。 もちろん、人と人とが分かり合うなんていう奇跡はおこらないし、人間はみんな孤独なのですが、過度に孤独を感じて苦しいと感じている人には「苦しいと思うことが正常だ」ということを言いたいです。 最近は息苦しさについてフィーチャーした本が多数出ていますが、「私はこれだけ苦しかった」という語りよりも「苦しくていいんだ」という方が希望が持てる気がします。 ひとりでいる人に対して本ができることがあるとしたら、「人間は基本的に愚かで苦しい」と伝えることなのではないでしょうか。 みんな愚かでみんな苦しい。 でも、その上で生きることにこそ価値があるということを、豊かな言葉で楽しく書きたい。 最終的にはそれが読者にとっての救いになると信じています。 【鈴木涼美さんプロフィール】 1983年、東京都生まれ。 厳格な女子小中学校を経てブルセラ女子高生となった後、慶応大学環境情報学部に入学。 キャバクラ店勤務、AV出演を経て社会学者の小熊英二ゼミに入室、本格的に論文を書くため東京大学大学院へ。 大学院修了後は日本経済新聞社に入社。 同社を退社後は、『身体を売ったらサヨウナラ~夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎)、『女がそんなことで喜ぶとおもうなよ~愚男愚女愛憎世間今昔絵巻』(集英社)などを執筆。

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