東日本 大震災 から 何 年。 「東日本大震災から9年 福島のいまを考える」(視点・論点)

東日本大震災から6年、「絆」とは何だったのか 『絆って言うな!』 渋井哲也氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)

東日本 大震災 から 何 年

大震災の発生を受け、ただちに「緊急政策要請」「救援カンパ」を行い、延べ約3万5000人の連合救援ボランティアを派遣。 その後は「雇用の再生なくして復興・再生なし」との立場から、本格的な生活・雇用再建に向けた取り組みを継続し、「東北の子ども応援わんぱくプロジェクト」も実施した。 そして昨年秋には、被災地に寄り添い続ける思いを示そうと、被災地の「いま」を伝えるプロジェクトとして「」をスタート。 12月には、これまでの連合の取り組みや被災地の現状をまとめた『東日本大震災から』を発行した。 本書をもとに、被災当時の状況を振り返り、被災地の「いま」を見つめ、未来への軌跡をたどる。 0の大地震とそれに伴う大津波が東北地方沿岸を襲い、1万5000人を超える人々が犠牲になった。 大震災を「忘れない、風化させない」ために、いま一度、何が起きたのか、人々がどう行動したのか、当時の状況を振り返ろう。 どこもかしこも悲惨だ 当時の状況を、岩手県大船渡市で被災した太平洋セメント労働組合(JEC連合)の森享男さんは、「津波来襲時、私は工場敷地内の高台に避難した。 逃げている途中、建物の隙間からあり得ない水位の海水が巨大な川のように陸地に向かって流れているのが見えた。 (この工場は)終わった...。 当時、労組の支部長をしていた私が真っ先に考えたのは、工場の存続とここで働く人の雇用であった」と振り返る。 「水没した工場設備を復旧するのは困難を極めたが、誰一人弱音を吐かず」、5月には再開に向けて動き出した。 連合岩手宮古地域協議会の花輪政文議長は「一瞬でこれまでの生活が一変した。 地面が割れるかと思った大地震。 日本の万里の長城と言われた高さ10メートルの防浪堤をいとも容易く乗り越えた大津波。 その後に起きた山火事。 悲惨だ。 どこもかしこも悲惨だ。... 昔話のように聞かされていた明治、昭和の津波の話。 まさか自分が体験するとは」と記す。 翌月には工場再開に向けて動き出したが、組合員には、家族を亡くした人、住宅が流失・全壊・浸水被害に遭い、避難所から出勤する人がたくさんいた。 「震災の悲しみとこの先の不安を抱えての復興作業は、どれほどに辛いものであったか計り知れない。 そこで、労働組合の役割として少しでも不安を解消できるよう社内に掲示板を用意したり、集会等で情報発信に務めた」と語る。 ライフラインに携わる組合員は不眠不休で復旧にあたった。 大停電となった石巻市で東北電力労組の高橋文弥さんは「不安と絶望感の中、ライフラインを守るという使命感のもと、1カ月間家に帰らず、『力を合わせ復興へ』を営業所の旗印に復旧・復興に向け、朝から晩まで働いた」という。 地震・津波の被害に加え、原発事故に見舞われた福島では多くの人々が避難を余儀なくされた。 JAM南東北福島県連絡会の深谷浩明事務局長は、「雇用の確保は企業再生から」を合言葉に「仮設住まいの生活必需品の手配、全国に散った組合員の帰還意思確認、職場の再開を望む声をJAM福島が中心となり取りまとめ、経営者に組合員の声を届け」、厳しい状況の中でも、一つも閉鎖することなくこの危機を乗り越えた。 「何か力になりたい」一心で 連合の救援ボランティア派遣の動きは迅速だった。 山根木晴久連合総合組織局長は「震災の数日後に被災3県に入った役職員からは、あまりの惨状にボランティア派遣は困難との報告があったが、一方で、政府からは早期派遣の要請もあった。 積極論と慎重論が交錯したが、被災3県の地方連合会による体制整備への懸命な努力と、構成組織の被災地への強い思いによる協力を得て、震災から20日で連合の旗のもとに集う災害救援ボランティアを立ち上げることができた」と振り返る。 3月31日、岩手、宮城、福島への第1陣が大型バスに乗り込み連合会館を出発。 それから半年間、連合は「被災地・被災者に迷惑をかけない」「現地の指示に従う」「安全確保」という3つの原則のもと、延べ3万5000人という民間最大のボランティアを派遣した。 「何か力になりたい」という一心で参加し、抜群のチームワークで被災地の信頼を得た連合ボランティア。 被災地の「いま」を伝える連合復興支援視察 東日本大震災から6年。 連合は、東日本大震災からの復興・再生を日本再生の最重要課題と位置づけ、さまざまな機会を通じて取り組みを進めてきた。 特に、全国で取り組んだカンパ活動、そして延べ約3万5000人の組合員が参加した連合救援ボランティアの経験は、労働運動の原点ともいえる、「助け合い・支え合い」の実践として、貴重な財産となっている。 そのような中、被災3県の地方連合会からは、「ボランティアの方々に、あらためて感謝の意を表したい」「いま一度、被災地に足を運んでもらい、復興状況を見てもらいたい」と、連合救援ボランティア参加者との再会・交流を望む声が多く寄せられた。 また、構成組織や地方連合会においても、復興支援活動を継続的に行う中で、被災地を再訪したいとの声が上がった。 そこで、あらためて震災と向き合うことをねらいとして、ボランティアに携わった皆さんと被災地を再訪・交流する「復興支援視察団」を編成。 復興・復旧の進捗状況などを把握するとともに、植樹活動など復興に向けた取り組みを行うことを決めた。 当初は、昨年8月に3県同時に実施する予定であったが、台風10号の接近で急きょ延期することとなり、11月末に宮城県、福島県を再訪した。 岩手県は視察予定の宮古市や岩泉町の台風被害が甚大であったことから、現在、日程を再調整しているところだ。 汗と泥にまみれ作業した当時の現場に立ち、再生した姿を前に心の震えが止まらない参加者、5年ぶりの被災者との再会に思わず涙した参加者の姿に接し、あらためてやって良かったと実感した。 「助け合い・支え合い」の実践を通じて結ばれた「絆」の尊さを再認識し、被災地、構成組織、地方連合会が連携し、いま一度、被災地に寄り添い続ける思いを行動で示していきたい。 山根木晴久 連合総合組織局長 『東日本大震災から5年未来への軌跡』(2016年12月14日発行/A4判120頁) 震災当時の状況、連合救援ボランティア参加者の手記、復興進捗状況、被災地の人々の声、復興から始まった新しい取り組み、被災地復興への思いなどが綴られている。

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東日本大震災発生から5年 あのとき、芸人たちは何を語ったか(てれびのスキマ)

東日本 大震災 から 何 年

東日本大震災からまもなく9年。 未曾有の災害を決して忘れず教訓とするため、フジテレビ情報制作局では、シリーズ『わ・す・れ・な・い』として、「津波の検証」と「被災者の思い」をテーマに20本の番組を放送してきた。 「津波の検証」に関しては、毎回特定の地域を取り上げ、津波の動きと人々の避難行動を、膨大な映像と証言に基づく時系列で詳細に検証。 「命を守るための行動」を導き出してきた。 では、人々の命を守るために、テレビにできることは何なのか…。 さらに、災害報道においてはメディアの連携によって、もっとできることがあるのではないか…。 震災から10年となる2021年に向け、フジテレビはNHK、ヤフーと共同でこのテーマに取り組む。 まず今年は、NHKで「スタジオ討論番組」を、フジテレビで「検証VTR番組」を制作。 フジテレビ制作の検証番組は、『わ・す・れ・な・い』シリーズとして、岩手県釜石市と宮城県山元町を取り上げ、あの日どのように災害情報が伝わり、人々の避難行動に結びついたのかを、当時のNHKの放送映像やフジテレビ報道映像、ヤフーの検索データなども交え、新たな証言から検証する。 さらに、ヤフーのネットでの試みも取材し、災害時に本当に必要な情報を探る。 宮城県・山元町 『わ・す・れ・な・い』チーフプロデューサー・宮下佐紀子(フジテレビ情報制作センター)コメント 「東日本大震災の映像検証番組『わ・す・れ・な・い』の制作を重ねるごとに、ほんのわずか逃げるのが遅くて失われた命の重さが浮き彫りになってきました。 どんな情報があれば、人は避難することができるのでしょうか…今回の番組では、メディアの垣根を超えることでこの問題を解決することはできないのか、当時の報道も交えた映像と被災地での証言から検証します。 あれから9年、NHKさんとヤフーさんとの前例のない共同企画で、災害時にメディアが力を合わせることで何ができるのか、可能性を探る試みです。 ぜひ他の2社の取り組みもご覧いただき、多くのご意見をお寄せいただければ幸いです」 【NHK・番組概要】 NHKとフジテレビ、そしてヤフーが垣根を越えて、災害時に犠牲者を一人でも減らしていくために、メディア同士が協力できること、連携できることを真剣に考えるコラボ特集。 あの日、「未曾有の大災害」と「想定外の被害」に直面したNHK・民放・デジタルメディア。 実は平時にはあり得ないメディア連携が生まれていた。 東日本大震災から9年。 さらにその後も続いた自然災害。 メディアの報道はどう進化してきたのか。 本企画に際してNHK、フジテレビにもデータを提供、情報配信のあり方をデータの観点から考える。 Yahoo! JAPANで検索やメディア・ECなど多岐に渡る事業を通じて蓄積したビッグデータをAI技術で分析。 独自のビッグデータで、今回の共同企画を支援する。 災害時の情報発信に関する「アンケート」も募集する。 <ページタイトル>.

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東日本大震災から6年経った今伝えたい、未来へのメッセージ

東日本 大震災 から 何 年

東日本大震災からきょうで9年となる。 あの年、小学生になった子どもたちが今春、中学校を巣立つ。 ハード面の整備は総仕上げの段階にある。 計画された計約1万8000戸分の宅地造成は99%が完了した。 当然のことだが、それで復興が終わるわけではない。 被災地では今、何が求められているのだろうか。 東京電力福島第1原発事故で町域の大半が避難指示解除準備区域となった福島県楢葉町。 指定解除から4年半がたち、現在の居住者は約3900人に増えた。 住民登録者と比べた「帰還率」は6割近くに達している。 学校や商業施設も次々と整備され、日常を取り戻しつつある。 多難な「共同体」づくり しかし、町は新たな課題に直面している。 町内には復興作業員をはじめ新しい住民も多数暮らしている。 工業団地が整備され、そこに進出してきた企業には町外からの通勤者も多い。 それらの人たちと元からの住民の交流は進んでいない。 震災前からの人間関係も、帰還とともに薄れた。 避難先で仮設住宅に入っていた頃まではかつての近所付き合いが保たれていたが、異なる地区の住民が集まる災害公営住宅(復興住宅)へ移った人も少なくない。 高齢者の多い帰還住民は孤立しがちとなった。 復興を支援する一般社団法人「ならはみらい」は、避難中の住民に帰還準備のための町内ツアーなどを企画してきた。 業務部係長の平山将士さん(45)は「一番つらいのは、復興住宅に移ったお年寄りから『今よりも仮設にいた頃の方がまだよかった』と言われる時です」と話す。 新しい住民を地域の活動に巻き込まなければ、いずれ共同体を維持できなくなることは目に見えている。 今年度、「ならはみらい」が事務局となり、住民と企業による新たなコミュニティーづくりを話し合う懇話会が設立された。 被災地全体を見回すと、復興の格差が目立つ。 同じ福島でも、帰還が思うように進んでいない自治体がある。 原発が立地する双葉町は、今月やっと居住地区ではない一部の避難指示が解除されたばかりだ。 岩手、宮城の津波被災地は復興が進んでいるかに見える。 だが、コミュニティーづくりという課題は共通している。 元々人口が減っているうえ、集団移転や土地区画整理によるまちづくりが長期化し、現地再建をあきらめる住民が相次いだ。 そのため、震災前の人間関係が失われた地域が各地にある。 津波で700人以上が犠牲になった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区はかつて漁師町として栄えたまちだ。 大規模なかさ上げ工事で新興住宅街に生まれ変わった。 まちの現地再建を進めた市と、内陸への移転を望む住民が対立し、復興計画は二転三転した。 復興住宅463戸などが整備され、「まちびらき」にこぎつけたのは昨年5月だ。 その間に戻らないことを決めた住民も多く、市は当初の計画人口5500人を2100人に修正した。 だが、市有地の分譲などを進めたところ、仙台に近い地の利もあって子育て世代が大勢流入した。 地域への関わりがカギ 閖上の出身で、津波により両親を亡くした格井直光さん(61)は地元のまちづくり団体の代表を務める。 各地に散り散りとなった住民のため、芋煮会を催したり、住民の近況を情報紙で伝えたりしてきた。 閖上を訪れる人を相手に、震災の語り部活動も続けている。 昨年12月、地元に新設された小中一貫校に招かれ、地区の歴史について話す機会があった。 今の子どもたちの多くは閖上の生まれではない。 その生徒たちから「閖上が好きになった」と感謝の言葉を返された。 格井さんは、旧住民と新住民が一つにまとまるには、まちの求心力となる何かが必要だと感じてきた。 地区の歴史を語り継ぐことが、その「何か」になりうるのではないかと思うようになった。 家が建ち、人が集まっただけでは本当の復興とは言えないだろう。 外から来た新しい住民と元からの住民をつなぐまちづくりが必要だ。 また、そこに住まなくても、まちに足を運び、交流することが地域を活性化する。 9回目の「3・11」。 復興に関わり続ける思いを新たにしたい。

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