寺田 ユースケ。 前澤お年玉、当選者の1年。~天使と悪魔が戦った~vol.95 (ユースケ)|寺田ユースケ(寺田家TV)|note

クララ(寺田湧将)の出身高校は?ホスト時代の年収と芸人をやめた理由!

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「もしかしたら自分は他人と違うのかも」。 そんな違和感を名古屋市出身の寺田ユースケさん(30)は幼少期から感じていた。 2歳の時に脳性まひと診断された。 両足にこわばりがあり、ゆっくりとしか歩けない。 周りから好奇の目で見られることも珍しくなかった。 小学4年の時だろうか。 道ばたで「お前の歩き方、変だな」と上級生に上履き袋を取られた。 返してもらおうとしたが放り投げられ、袋は近所の車のボンネットへ。 上級生は逃げ、ユースケさんだけが謝った。 それでも幼少期は楽しかった思い出が勝る。 ユースケさんの母・恭子さん(57)と父・泰人さん(57)はともにスポーツに親しみ、運動や健康に関する研究に携わる「スポーツエリート」だ。 ユースケさんも幼い頃から体を動かすのが大好きだった。 脳性まひと診断された後も、中日ドラゴンズのファンだった泰人さんと時間が許せば公園でキャッチボールをした。 小5で入った少年野球チームではチームメートや指導者にめぐまれ1軍の公式戦にも出場した。 心の片隅で感じていた違和感が重くのしかかるようになったのは、成長するにしたがって周りとの差が広がっていったからだ。 公立中学校でも野球部に入ったユースケさん。 練習試合に代打で出場した時のことだ。 左越え打を放ち、一塁ベースを蹴って二塁に行く途中で、走るのを止めた。 思い切り走れば二塁打になる当たりだったのに。 内股で足を引きずるように走る姿が恥ずかしくて、三塁側ベンチの相手に見られたくなかった。 そして、どんなに練習しても試合に出られることはほとんどなかった。 越えられない壁を感じたのは私立高校入学後。 それまで軟式だった野球が硬式に。 白球の速さについていけず、捕球はおろか避けることも難しくなった。 朝から放課後遅くまである練習や、毎週末のような遠征にも、体がついていかない。 そして監督から記録員への転身を打診された。 「小学生の頃からずっと頑張ってきたのに」 高1の冬、選手でいられないなら、と野球部を辞める決心を固めた。 その日、学校は午前中のみだった。 帰宅すると、恭子さんが昼食のチャーハンを出してくれた。 「なんで、俺が辞めなきゃいけないんだよ。 なんで、なんでこんな体に産んだんだよ!」 そう叫んで、食卓の皿をひっく….

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寺田 ユースケさん|車椅子は「かぼちゃの馬車」

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HELPUSHプロジェクトとは 道行く人たちに「ちょっと車イスを押してください」と言って進む、 HELPUSHプロジェクト 車イスヒッチハイクの旅で、日本全国を廻ります。 ある日、駅員さんに10m先にある階段を登りたいので車イスを運ぶのを手伝ってくださいと頼んだところ、 そこは駅の管轄の範囲外なので手伝えませんと言われてしまいました。 虚しく友人に愚痴をこぼしたら、 「そんなの道行く人にちょっと助けて貰えば良かったじゃん!」と言われた経験から、 「ちょっと助けて」と言えない自分に気づいたとのこと。 この HELPUSHプロジェクトを通して、全国のヒーローたちの力をお借りして、 以前からの夢であった 日本全国への旅をするとともに、 「夢」を追えること、そして 「感謝」を感じる旅を目指したいと意気込んでいました。 ただ、肝心の勘違いの内容については言及されていないため、現在でも不明となっています。 寺田ユースケと結婚した美人嫁は真弓さん 寺田ユースケさんは2017年に現在の奥様・真弓さんと出会い、同年にプロポーズ、そしてご結婚されました。 もしかしたら、HELPUSHのプロジェクトがきっかけだったのかもしれませんね。 プロポーズの言葉は「めゆみ!ずっと僕の車イスを押してください!」だそうです。 このときは、奥様は顔出ししていなかったたため、ブログ上は名前をめゆみと呼んでいるようです。 2017年12月22日。 僕のプロポーズはこれでした。 めゆみは、『はい。 』ってニコッて笑ってくれました。 嬉 この瞬間、僕の夢が叶いました。 今だからこそ、気がつけたことなんですが…。 思い返すと高校生の頃から漠然と、 スーパースターになりたいという夢がありました。 とにかく表舞台に立ちたい。 有名になりたい…。 なぜそう思うのか、 実は自分でもわかりませんでした。 めゆみに出会って、その理由がわかりました。 そうすれば、結婚も出来るだろう。 僕のことを認めてくれる人にも出会えるはずだ。 そう考えていたようです。 この日、夢が叶いました。 たとえスーパースターになっていなくとも。 僕は考えすぎでしたね。 (苦笑) 高校生のときのネガティヴな僕に言いたい。 『大丈夫!必ず君を認めてくれる素敵なひとに出会えるから。 』 だからその日まで、その日まで生きるんだ。 頑張らなくていい。 踏ん張るんだ。 必ず出会えるから。 なんだか、じーんときますね。 美人で素敵な奥様に出会えて良かったですね~! 寺田ユースケさんの経歴 生まれた頃から脳性まひ 父親はラグビー、母親はダンス、というスポーツエリートの両親のもとに寺田ユースケさんは生まれました。 当時、 障がい児の母親は仕事を辞めて付きっ切りで面倒を見るのが一般的だったそうですが、新米大学教員だった母親は仕事を辞めることなく、自分の研究内容を一新し、障がい者スポーツの勉強を始めてくれたのだとか。 その甲斐あって、手の障害は急速に回復したそうです。 このときのリハビリは「あんぱんまんのシール剥がし」だったそうです! 小学生のとき少年野球チームに入団 小学5年生のとき、寺田ユースケさんは少年野球チームに入りたいと言い出しました。 母親は、監督さんやチームの他の子たちのお母さんたちに、「ユースケには出来ないことが多いですが、頑張ると思うのでよろしくお願いします」としっかり伝えてくれていたそう。 初めて公式戦にスタメン出場したときのことは今でも良い思い出となっているそうです。 高校時代は自己否定の日々 寺田ユースケさんは名古屋学院名古屋高等学校に入学しました。 思春期に入り、高校時代は障害のある自分を受けいれられなかったそう。 高校1年のときにドクターストップが出て、硬式野球部を辞めないといけなくなったときは、家で母親に 「なんでこんな身体に産んだんだ!バカヤロー!」 と言って、母親が作ったチャーハンのお皿をひっくり返したこともあるのだとか。 そして高校3年生のときは足の手術で4ヶ月入院。 主治医の先生がとても理解のある先生で、手術後は寺田ユースケさんのために特別のリハビリメニューを考えてくれたそうです。 とてもハードなメニューだったそうですが、持ち前のストイックさでこなしたそうです。 「僕は、どんなに辛いリハビリにも耐える。 それは今まで健常者に混じってキツい野球の練習を乗り越えてきたから。 だから特別メニューを作ってください。 」と懇願しました。 アウトローの主治医は、まず、 足上げを1000回など、1日に12時間以上使わないとこなせない特別メニューを作ってくれました。 無茶苦茶です 笑 マニュアル通りやりなさいと怒る看護師長さんと何度もぶつかりました。 それでも、 足が劇的に良くなっていきました。 あまりに動くから、病室に監禁されそうになって、 枕で寝たふり人形を作って逃げ出してリハビリしたり、、 1km、2kmと楽に歩けるようになって嬉しくてテンションが上がって、 歩きすぎて迷ってしまい病院に戻れなくなり、失踪してしまった、、 など面白いエピソードが残っています。 大学は関西学院大学 関西学院学へ通うために実家を離れ、一人暮らしを始めたそうですが、健常者の足には遠く及ばず、差を感じずにはいられなかったそうです。 このとき母親から車椅子を勧められ、車椅子に乗るようになります。 それまでは 「車イスに乗ったら負けだ」 と拒否していましたが、 いざ乗ってみたら「あれ?」と思うほど快適で、 一気に行動範囲が広がりました。 ボクにとっては魔法のアイテム。 「かぼちゃの馬車」と呼んでいます。 大学卒業後は芸人の道へ 大学在学中に単身留学で英国に行ったとき英国のお笑いに影響され、帰国後にお笑い芸人を目指すことを決意。 吉本興業の養成所NSCに入学します。 ただ、障害を笑いに出来る海外の文化とは異なり、日本で障害を笑いにするのは賛否両論でうまくいかなかったようです。 芸人の次は車椅子ホストに お笑い芸人をやめようか悩んでいる頃、尊敬する先輩から「人と話す仕事を続けた方がいいよ。 ホストをしてみたら?」と言われ新宿歌舞伎町のホストクラブで車椅子ホストへ転身。 ホスト=女性を騙す、という偏見があったそうですが、職場の方たちの温かい励ましでそんな偏見も無くなっていったそうです。 現在は 現在は、ホストを卒業し、書店員をしながら、youtuberとしても活躍中です。 まとめ 今やyoutuberとしても紹介されるようになった寺田ユースケさん。 以前HELPUSHで勘違いを起こした様子や、寺田ユースケさんの生い立ち、結婚エピソードなどをまとめました。 寺田ユースケさんは2019年1月7日、ZOZOTOWN前澤社長のお年玉企画にも当選し、100万円で障害者に服をプレゼントし表参道を歩きたい!と意気込んでいます。 今後のご活躍にも注目していきたいですね。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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前澤友作の100万円で、僕の人生は変わった 車いすYouTuber寺田ユースケ、お年玉から始まった「悩み」と「気づき」の1年: J

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渋谷のラジオ 「1億総笑える部」1周年記念放送回 ゲスト 母 皆さん、こんにちは!寺田ユースケと申します! 私は、生まれつきの脳性まひという障がいがあり、首から下に麻痺があります。 主に足のまひが強く、ちょっとなら歩けますが、日常生活は車イスを使っております。 『すべての人が、気軽に「助けて」と言えて、気軽に「後押し」ができる世の中にしたい。 』というコンセプトに、道行く方々に「ちょっと車イスを押してください」と声をかけて進む、車イスヒッチハイクの旅で日本全国を廻ります。 以上が軽い自己紹介です。 渋谷のラジオで 「障がいも性別も年齢も病気もぶっ飛ばして笑っちゃえ!」というコンセプトの 「1億総笑える部」という番組 渋谷のラジオにて毎月第1日曜 21:00~22:00放送中 でパーソナリティをさせて頂いてます。 番組プロデューサーの粋な計らいで、放送1周年記念の特別ゲストが、なんと私の母である寺田恭子になりました。 写真:渋谷のラジオ 収録時 どんな収録になるのか不安でしたが 笑 この際、どのように私を育ててくれたのか、普段は恥ずかしくて聞けないような話も聞いてみることにしました。 すると私が今まで知らなかった、母の息子への想いを知ることが出来ました。 父と母は、 父はラグビー、母はダンスで、体育を専門としているスポーツエリートでした。 スポーツが出来るところが自分たちの良いところで、周囲からも、 スポーツ万能の二人に息子が出来た!サラブレットだね!ユースケくんは、将来どんなスポーツをやるのかな?と期待は凄かったそうです。 写真:母と診断を受けたころの寺田 しかし、待望の息子は 「脳性まひでスポーツが出来ない身体」と診断されました。 診断を受けた瞬間、抱きかかえていた息子を落としそうになった。 それから記憶が飛び、夫が運転する車の後部座席で、ただただ涙が出たと。 スポーツが出来ることが夫婦にとってアイデンティティで、 自分たちの生き方すらも否定されてしまった。 そんな感覚に陥ってしまったそうです。 息子が診断を受けた日から突然、障がい児になってしまった。 けれど、笑顔で笑っている息子は、診断を受ける前日と全く変わらない笑顔で笑っていたのです。 その時、これから成長していくこの子のためにも、ここで立ち止まったらいけないと思ってくれたのです。 当時、 障がい児の母親は仕事を辞めて付きっ切りで面倒を見るのが一般的でした。 それでも、新米大学教員だった母は仕事を辞めることなく、私が社会で活躍出来る人間になれるように、自分の研究内容を一新し、障がい者スポーツの勉強を始めてくれたのでした。 そして父と母、家族で私の障がいを良くする訓練の日々が始まりました。 好きなことなら熱中できるのではないか? 2歳の私が部屋に貼られたアンパンマンシールを笑いながら一生懸命剥がして笑っているのを見て、部屋のいたるところにシールを貼ったのです。 それを毎日、ひたすら剥がす。 それが自然と手のリハビリになっていたのです。 医者には手も不自由で使えなくなると言われていたにも関わらず、 劇的に回復し、今では手の障がいはほとんど感じません。 お友達のお家のトイレに入り、なかなか出てこないと思ったらトイレのシールを剥がしていたくらい、熱中していたそうです 笑 このシール剥がしが私にとっての原点でした。 その後、小学校低学年になり、 母がいつもド派手な格好で授業参観に来るのが子ども心に、目立ちたがりの母が鬱陶しかったのを覚えています 笑 なぜ派手な服を着ていたかと言うと当時、 障がい児の母ということで舐められたくなったという思いがあったそうです。 写真:真っ赤な派手な服を着て授業参観に来た母 写真:小学校のとき、ギブス治療をしていた寺田 スポーツが好きな両親の血の影響か小学生になった私は、 5年生の時、少年野球チームに入りたいと言い出しました。 プロ野球選手になりたいような子たちが集まるチームです。 母は、走ることの出来ない野球少年に、何が出来るのか?そう思ったけれど、親に黙って練習を見に行っていたことを知っていて、 やりたいという意思をまずは尊重しようと入団を許してくれました。 みんなと同じように入団できた。 やっぱりボクは、両親の血を継いで運動神経抜群なんだという勘違いをしていました 笑 本当は、裏で母が家族が、監督さんや他の子たちのお母さんたちに、「ユースケには出来ないことが多いですが、頑張ると思うのでよろしくお願いします」としっかり伝えてくれていたのです。 写真:少年野球チーム 名古屋ウエスタンズ だから私は、無事に野球を楽しむことが出来たのです。 とはいえ、走れなければ、バットもろくに振れない私です。 薄々気がついていました。 そしてこう思ってました。 「走れないボクは、みんなと同じように活躍は出来ない。 どうしたら活躍出来るだろうか?」 毎日小学生なりに悩んでいた私に、監督が言いました。 「寺田、バントを極めろ!」 その日から、来る日も来る日も、お父さんにボールを投げてもらいバンドの練習をしました。 練習でも、みんながランニングしている間にひたすらバントの練習を。 そして忘れられない1日を迎えます。 初めて公式戦に9番ライトでスタメン出場することになったのです。 母は、その日のことが忘れられない。 本当に良い監督に出会ったと私に話してくれました。 試合前、円陣を組んで監督がみんなに言いました。 「いいか、みんな聞いてくれ。 俺は、寺田がスタメンで出る夢を見た。 そして俺たちは試合に勝った。 だから、俺は寺田を9番ライトで出す。 みんないいか?」 公式戦です。 私が出るということは、代わりに一人出られなくなる。 けれど、その子も含め、 おお〜!頑張るぞ!と歓声が湧いたのです。 試合が始まり、絶好のバントのチャンスに打席が回ってきました。 今でも鮮明に覚えています。 監督からバントのサインが出ました。 そして、コツンと バントを成功出来たのです。 その時のチームの盛り上がり、母の喜びようは今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。 けれど、それだけでは終わりませんでした。 ライトを守る私。 走ることの出来ない、守備範囲半径1mのライトです。 写真:練習中の寺田 緊迫した試合状況の中、なんと 相手バッターの強烈な打球が飛んできたのです。 その瞬間、母はダメだ!ユースケのミスで負けてしまう!と目を向けられなかったそうです。 けれど、よろっと1歩だけ動いた私のグローブには、 白球がすっぽり入っていました。 うぉ〜!歓喜するチームメイトとのハイタッチは今でも忘れません。 さらに打球が飛んだ瞬間、キャッチャーの 「寺ちゃんのとこへ走れ〜!」への一声で、センターが、レフトが、セカンドが、瞬時に動き、駆け寄り、私がボールを捕る瞬間には、仮に落としてもミスにならないように、すぐ近くまでカバーをしに全速力で走ってくれていたのです。 母も涙を流しながら、周りの親御さんたちとその瞬間を見てくれていました。 無事チームは勝利し、最高の経験をすることが出来ました。 この少年野球での経験は宝物です。 写真:卒団証書 しかし、健常者の少年野球チームに入ってまで、明るく、がむしゃらに白球を追い続けていた寺田少年は、 思春期に入ると障がい者である自分を受け入れることが出来なくなってしまいました。 寺田ユースケ.

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